<本文>
図1に日本の原子力発電技術開発の歩みを示す。
1.原子力による初発電
日本の原子力発電開発の歴史は、日本最初の研究炉JRR-1(1957年8月初臨界)、JRR-2(1960年10月初臨界)、JRR-3(1962年9月初臨界)などの研究炉を次々と建設・運転させた日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構、以下原研)の動力試験炉JPDR(Japan Power Demonstration Reactor)の初発電(1963年10月26日)から始まる。この10月26日はその後日本の初発電とIAEA加盟を記念して原子力の日と定められた。
JPDR(電気出力12.5MW、BWR)は原研と米国ゼネラルエレクトリック(GE)社が1960年(昭和35年)8月30日に建設契約に調印し、茨城県の原研東海研究所(現、日本原子力研究開発機構原子力科学研究所)内に翌1961年3月建設に着手した。GE社が機器の設計、燃料加工を行い、国内では(株)日立製作所(後のBWRメーカー)、日本原子力事業(株)(後のBWRメーカー)が中心になって機器の製造を行った。JPDRの目的は、原子力発電所の建設、運転、保守の経験を得ること、運転試験を通じて発電用原子炉の特性を理解すること、および発電用原子炉の国産化に貢献することであった。
JPDRの運転では原子炉容器の上蓋内面、胴部などのクラックを経験した。国産軽水炉燃料照射試験の場を提供するためJPDR-II改造計画がたてられた。熱出力を2倍の90MWに増強し原子炉冷却方式を自然循環型から強制循環型に改造し、1972年2月出力上昇試験に入った。炉心スプレー配管、給水系配管などのひび割れ、制御棒駆動装置の異常など相次いで不具合が発生し、結局全出力を達成しないまま1976年3月JPDR-IIは運転終了となった。その後は発電炉
解体技術開発の実地試験の場に提供され、この試験も1996年3月終了した。JPDRとJPDR-IIの運転経験で得られた知見はその後の商業原子力発電所の建設・運転および多発した
応力腐食割れの原因究明と防止対策に多大な貢献をした。
2.コールダーホール型炉の導入
原子力発電への期待が急速に高まる中で、当時の自主研究開発路線の河野一郎経済企画庁長官と商業炉早期輸入路線を主張する正力松太郎原子力委員長(国務大臣)との論争があり、結局商業炉早期輸入となった。日本原子力発電(株)(日本原電)が1957年11月に発足し、米国から軽水炉、英国からガス炉のアプローチがあったが、正力松太郎の肝煎りで英国のコールダーホール改良型(電気出力166MW、天然ウラン、炭酸ガス冷却黒鉛減速炉:GCR、ガス炉または
マグノックス炉ともいう)の導入が決定された。敷地は茨城県東海村になった。この東海発電所は日本向きに炉心の耐震設計強化した改造がなされ、建設は英国GE社と富士電機グループが行なった。1965年11月10日に商業原子力発電所としては日本で初発電に成功し、1966年7月25日に営業運転を開始した。また
廃止措置に入るため1998年3月31日をもって32年間の営業運転を終了した。
3.軽水型炉へ方針変更
日本原電が東海発電所の建設を進めている一方、電力各社は、米国で開発された軽水型発電炉(加圧水型炉(PWR):米国ウェスチングハウス(W)社が開発、
沸騰水型炉(BWR):GE社が開発)が、英国で開発されたガス炉に比べて、コンパクトで建設費も低く、今後の改良・大型化が期待できるなどの理由から優れているとして、軽水炉の建設計画を進めていた。同様な理由で日本原電も1965年9月には軽水炉路線に変更し、敦賀発電所1号(BWR、電気出力357MW)をGE社、日立グループが建設し1970年3月14日に営業運転開始した。また1970年11月28日には関西電力が福井県美浜町に設置を進めていた美浜発電所1号(PWR、電気出力340MW、三菱グループが建設)が営業運転開始した。さらに1971年3月16日には東京電力が福島県大熊町に建設を進めていた福島第一原子力発電所1号(BWR、電気出力460MW、GEと東芝グループが建設)が営業運転開始し、原子力発電は本格化した。
折しも、美浜1号機が試験運転中に初送電(1970年8月8日)した電気は、開催中の大阪万国博覧会会場まで送電され、そのニュースが会場内に設けられた電光掲示板に大きく掲示され、人々に原子力発電時代の到来を強く印象付けた。
4.原子力発電技術の展開と軽水炉改良標準化計画
表1に原子力発電所の
設備利用率と時間稼働率の推移を示す。原子力発電所の設備利用率は、1970年度は73.8%(4基)と順調だったものの、その後、配管などに応力腐食割れ、
燃料被覆管にピンホールなどが発生し、その対策のため原子炉停止期間を大幅に必要とし次第に設備利用率は低下した。防止対策が確立するに従って、1977年度の41.8%(14基)を大底にして次第に上昇し、1995年度には初めて80%台(49基)に乗せて、その後は2001年度まで毎年連続で設備利用率80%台の高稼動を維持し続けている。しかし、2002年(平成14年)に明らかになった原子力プラントの自主点検作業データ(シュラウドなどの機器のひび割れなど)に関する不正記載、いわゆる「東電問題」は国民に原子力発電に対する不信感を与え、その影響で東電の多数の原子力発電所が長期間、運転停止した。この影響で2002年度と2003年度の設備利用率は平年より低下している。
図2に軽水炉改良標準化計画スケジュールを、
表2に軽水炉改良標準化計画を示す。
これまでの日本の軽水炉の建設、運転、保守などの経験を生かし、自主技術による軽水炉の信頼性向上、稼働率向上、作業従事者の
被ばく線量の低減などを目標として、軽水炉の改良標準化計画を1975年度(昭和50年度)から通商産業省(現、経済産業省)を中心にして、電力会社、原子炉メーカー、研究機関などが一丸となって推進した。対象とする炉型と出力を、BWRとPWRのそれぞれの炉型について800MWと1,100MW級の計4通りを選定し、技術的難易度を考慮し段階的に実行した。
第一次改良標準プラントの基本仕様では、これまでの故障対策を全面的に採用するほか、
原子炉格納容器の形状およびスペース、内部の機器の配置等の改良による作業性の改善と被ばくの低減に重点が置かれた。第二次改良標準化では、さらに運転保守性の向上、定期検査の効率化などが図られた。第一次改良標準化の成果は、福島第二2号(BWR、1,100MW、1979年着工)、川内1号(PWR、890MW、1978年着工)以降の発電所に、第2次改良標準化は柏崎刈羽2号(BWR、1,100MW、1983年着工)、玄海3号(PWR、1,180MW、1985年着工)以降の発電所に採用されている。
表3にBWRの第三次改良標準化の改良項目を、
表4にPWRのそれを示す(
表5も参照)。1981年度から1985年度に亘って行われた第三次改良標準化計画では、負荷追従、長期サイクル運転、炉心性能の一層の改善、プラント全体のコンパクト化による立地性の向上、建設期間の短縮などを目標にしたほか、日本型軽水炉とも言える改良沸騰水型原子炉(ABWR)および改良加圧水型原子炉(APWR)の設計開発を目指した。ABWRにおいては、インターナルポンプ(
原子炉再循環系)、改良型制御棒駆動機構、鉄筋コンクリート造格納容器(RCCV)、
高燃焼度燃料、大型タービン翼などが採用されている。すでに柏崎刈羽6号(ABWR、1,356MW、1991年着工)、同7号(ABWR、1,356MW、1992着工)が営業運転(6号:1996年11月、7号:1997年7月)入りしており、ABWRとしての営業運転は世界最初である。APWRについては、今後建設される日本原電の敦賀3、4号(各々1,538MW)に採用される計画である。なお、浜岡5号機(ABWR、1,380MW、1999年着工)、志賀2号機(ABWR、1,358MW、1999年着工)が各々2005年1月および2006年3月に営業運転に入った。
表6−1(着工ベース)と
表6−2(炉型)にBWR技術の変遷を、
表7−1(着工ベース)と
表7−2(炉型)にPWR技術の変遷を示す。
5.原子力発電の伸びと単基容量の拡大
日本で初期の原子力発電所の運転を開始したころ、1973年10月6日に勃発した第四次中東戦争をきっかけに、いわゆる石油危機(石油ショック)が発生し、石油価格はそれまでの3ドル/
バレル程度から12ドル/バレル程度にまで急騰した。その後脱石油政策がとられ、原子力発電所の建設が加速された。
表8に発電設備容量の1970年度、1999年度および2004年度との比較を、
表9に発電電力量の1970年度、1999年度および2004年度との比較を示す。石油ショック前(1970年度)の日本の商業用原子力発電所はまだ4基、合計原子力発電設備容量1,323MWで原子力発電設備のシェアは2.3%であったのが、その後商業原子力発電所第1号の東海発電所が廃止措置に入るために1998年3月31日に運転終了したのを除いては順調に増加し、2004年度には53基、原子力発電設備容量47,122MWで、総発電設備容量の17%となった。また発電電力量では、1970年度の原子力の発電電力量4,581百万kWhで総発電電力量の1.5%であったのが、1999年度には315,914百万kWhで総発電電力量の34.3%、2004年度には282,442百万kWhで総発電電力量の30%となった。
現在運転中の原子力発電所53基の発電設備容量(電気出力)の推移、BWR(30基)およびPWR(23基)を
図3に示す。単基の発電設備容量で最大の原子力発電所は東京電力の柏崎刈羽6、7号機(ABWR)で、1,356MWにまで大容量化しており、柏崎刈羽原子力発電所7号機が営業運転を開始した1997年7月2日をもって、原子力発電所1サイトとしても7基合計8,212MWとなり、カナダのブルース原子力発電所(CANDU型8基、7,276MW)を抜いて、世界最大の原子力発電所となった。
6.プルトニウムの利用
日本では、1987年6月決定の原子力長期計画の策定以来、動力炉・核燃料開発事業団(現、日本原子力研究開発機構)、日本原燃(株)が進めていた核燃料リサイクル事業はほぼ順調に進展してきたが、高速増殖炉開発の遅れや新型転換炉「ふげん」の撤退(2003年3月運転終了、廃止措置準備中)などによって、プルトニウム(MOX燃料)の利用は軽水炉での利用が当面の主流となり、その計画(プルサーマル計画、
表10参照)が進められている。従来から日本の原子力発電所からの
使用済燃料からのプルトニウム燃料(MOX燃料)加工は海外(
再処理)によって行なわれているが、六ヶ所再処理工場でも年間100トン程度のMOX燃料の加工事業ができるよう、本格操業に向けて準備作業が進められている。
7.初の商業原子力発電所の閉鎖
日本で商業炉初の廃止措置が行われることになった日本原電の東海原子力発電所は1998年3月31日に運転を停止し、1966年7月からの32年間の歴史に幕を閉じた。経済性が低くなったことが主な理由で、停止後は3年半ほどの期間で原子炉内から燃料を取り出し、英国の再処理工場へ搬出する。燃料の取りだし・搬出後、5年から10年の期間をおいて放射能が減衰するのを待ち、さらに5年から10年程度をかけて解体撤去し、更地に戻す計画であり、2001年12月より解体に着手した。
<図/表>
<関連タイトル>
原子力発電技術の開発経緯(PWR) (02-04-01-01)
日本の原子力発電所の現状(1999年) (02-05-01-03)
第一次および第二次改良標準化 (02-08-02-01)
第三次改良標準化 (02-08-02-02)
APWRの改良発展 (02-08-02-06)
日本のプルトニウム利用計画 (04-09-02-11)
日本のウラン探鉱の歴史 (16-03-04-02)
日本の再処理開発の歴史 (16-03-04-03)
<参考文献>
(1) 火力原子力発電技術協会:火力原子力発電50年のあゆみ、2000年10月
(2) 日本原子力研究所:原研30年史、1986年6月
(3) 動燃三十年史編集委員会、動燃三十年史、動力炉・核燃料開発事業団(1986年6月)
(4) 日本原子力産業会議(編・刊):原子力年表1985年?2000年、2000年10月
(5) 日本原子力発電(株):敦賀発電所の建設、1978年3月
(6) 原子力安全研究協会:軽水炉発電所のあらまし(改訂版)、1992年10月
(7) 独立行政法人 原子力安全基盤機構(編集・発行):原子力施設運転管理年報 平成17年版(平成16年度実績)平成17年9月、p.13、p.22、p.36、p.44
(8) 電気事業連合会統計委員会(編):電気事業便覧平成17年版、日本電気協会(2005.10.20),p42-43
(9) 日本原子力産業会議:世界の原子力発電開発の動向1999年次報告、2000年5月
(10)日本電気協会新聞部(編集・発行)原子力ポケットブック 2006年版、p.156、p.160