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1.中性子回折・散乱の原理
数十meV程度のエネルギーの中性子は、粒子としての性質と共に、波としての性質も併せ持っており、光や音波と同様な回折・干渉効果を示す。中性子散乱はこの性質を利用して、物質の構造やダイナミズムを解明する研究手段である。原子炉中の
減速材と熱平衡にある中性子の波長は、ほぼ0.1〜0.3nmで、結晶構造解析に利用される
X線と同等な波長であるので、同じように利用できる。しかし、中性子は、つぎのようなX線とは異なった特徴を有している。
1)中性粒子であるので物質の透過能が遥かに大きい。
2)X線の原子に対する散乱能は原子番号に比例する。すなわち原子番号の小さい原子からはあまり散乱されない。それに対して中性子の主な散乱は核散乱であり、原子番号と無関係である。特に水素またはプロトンによる散乱能が比較的強く、水等の水素含有物質の構造解析に大きな役割を果たす。
3)中性子は磁性粒子であり、磁性の源となる磁性原子の電子磁気モーメントと磁気的な相互作用による散乱(磁気散乱)も存在する。X線や電子線の場合にもこの相互作用は存在するが、散乱能は遥かに小さい。これは中性子により物質の磁気構造を容易に決定できる事を意味している。
4)数十meVのエネルギーは温度に直すと室温付近に相当する。すなわち原子間引力により束縛された物質中の原子は室温ではこの程度のエネルギーで振動している。同じように電子磁気モーメントもこの程度のエネルギーで揺らいでおり、その揺らぎや秩序の温度変化が物質の構造や磁性、すなわち物性、を支配している。中性子は是等の振動とエネルギーのやり取りを行い、自らのエネルギーと同程度の変化を示す。この情報から物質中の原子や電子磁気モーメント振動の様相を明らかにできる。原子間隔の波長をもつX線のエネルギーは数keVであるので、この様な物質中の振動による微細な変化量の検出は非常に困難である。電子線の場合には可能であるが透過能が小さいので薄膜か表面の振動の測定に限られる。
これらの特徴を利用しての研究は他の手段では得られない情報が得られる為、現在では物性物理および材料科学の研究に欠かせない測定手段になっている。実際1950年以後、原子炉や加速器技術の急速な発展により、
研究用原子炉をはじめとする大強度の中性子ビーム源の施設が建設されて、中性子回折・散乱による物性物理・化学の研究が一挙に進展した(文献1−4)。
中性子回折・散乱の研究には、巨大な
中性子源と測定装置を必要とする。現在用いられている中性子源は10-75MW級の研究用原子炉とGeVクラスのプロトン加速器である。原子炉では中性子が
235Uの核連鎖反応により常時生成される。その為に減速材の温度に対応するエネルギー分布を持った中性子が定常的に発生する(定常中性子源)。陽子シンクロトロンで加速される0.1msec位の長い大強度の陽子パルスを重金属に衝突させて
原子核を破砕し中性子を発生する加速器利用中性子源ではこの陽子パルスの繰り返し数に対応して、フラッシュの様にパルス状の中性子が発生する(パルス中性子源)。いずれも多額の建設費および運転維持費が必要で、利用施設として認知されている中性子散乱施設は世界的に見ても約17程度しか存在していない。世界の有力な中性子源と中性子実験装置の情報に関しては、インターネット(
http://www.neutron.anl.gov/)を経由してアクセスできる。2007年現在、日本で利用可能な中性子源は日本原子力研究開発機構(原子力機構)のJRR-3研究炉と京都大学原子炉実験所のKUR研究炉の定常炉中性子源のみである。JRR-3の中性子散乱装置配置図を
図1に示す。世界に先駆けて1980年からパルス中性子源として先駆的開発研究を推進してきた高エネルギー加速器研究機構(高エ研)のKENSは2006年に停止された。このKENSで培われた経験に基づき、2001年から原子力機構と高エ研の共同プロジェクト大強度陽子加速器計画(J-PARC)の中心施設としてパルス中性子源中性子散乱施設「物質・生命科学実験施設」の建設が開始され、2008年に稼働開始の予定である。
図2にJ-PARCと物質・生命科学実験施設の完成予想図を示す(文献5)。
2.測定方法と装置の概要
原子炉(定常中性子源)と加速器(パルス中性子源)とでは、それぞれの中性子源の特徴を活かす為に、中性子の具体的利用方法は異なる。いずれの中性子源も減速材によりエネルギーが十分に低下した中性子を特定の方向にほぼ向きを揃えて取り出さねばならない。取り出された中性子には種々のエネルギーの中性子が混在しているので、この中から特定のエネルギーの中性子のみを取り出す操作が必要である。この方法には2種類有り、単結晶のブラッグ反射を利用する方法(モノクロメータによる方法)と中性子の速度がエネルギーの関数であることを利用する方法(速度選別機による方法)がある。特定な中性子を取り出す方法を
図3に示す。
パルス中性子源では中性子が狭い時間幅の間に発生するので、その時刻から中性子が検出器に到達するまでの時間を測定する事によりエネルギーを選別できる(飛行時間法)。
物質中の原子は物質が結晶である場合、規則的な配列をしているので、この規則性を反映するブラッグ散乱を生ずる。すなわち、干渉効果により特定の散乱方向のみで強い散乱を示す。この散乱に寄与する中性子の波長が既知の場合、その散乱角と散乱強度から結晶構造が決められる。この場合には散乱中性子のエネルギーは入射中性子のエネルギーと変わらない。従って、弾性散乱と呼ばれる。磁性原子の場合には、磁性原子の種類のみならず、磁気モーメントの向きも散乱強度に関係するが、これを考慮して磁気構造も同様な方法で決められる。結晶構造解析ではX線回折に匹敵する分解能が要求される。回折装置の概要は基本的にはX線のものと同じであるが、中性子の場合より厚い遮蔽体を必要とするので一般に装置はX線のものより大きくなる。
物質中の原子や磁気モーメントの振動状態による散乱で中性子はエネルギーをやり取りするので、これを非弾性散乱と呼ぶ。この非弾性散乱を測定する為には入射中性子が上記のように特定された場合には特定方向の散乱中性子のエネルギーを測定して、両者のエネルギー差を決めねばならない。このために、定常中性子源では通常散乱中性子エネルギーを上で述べた単結晶のブラッグ反射を使うモノクロメーター法で決める。パルス中性子源の場合には散乱中性子の飛行時間を測定してエネルギーを決めるのが一般的である。非弾性散乱では300meV-0.2μeVの広範囲のエネルギー変化の測定が求められるので、測定装置や中性子源に種々の工夫がなされている。典型的な定常中性子源非弾性散乱装置である単結晶モノクロメーター型3軸中性子分光器を
図4(a)、典型的なパルス中性子源非弾性散乱装置である飛行時間型チョッパー分光器を
図4(b)に示す。
中性子弾性散乱(中性子回折)が物性物理にとって重要な測定手段である事が認められたのは、反強磁性体の磁気構造の実験的な解明がShull博士等により初めてなされたことによる。またさらに中性子散乱はBrockhouse博士等による結晶内の量子化した格子振動(フォノン)の非弾性中性子散乱実験による検証により重要性を益々認められるようになった。両博士はこの「物性研究の為の中性子散乱技術の先駆的貢献」に対して1994年にノーベル物理学賞を受賞されている(
http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1994/index.html参照)。
中性子源に関しては、冷中性子源の開発があげられる。原子炉内や加速器ターゲット周囲に液体水素や固体メタンなどの約20Kに冷却された減速材を置き、この中で中性子を十分に冷却する。これにより低エネルギー中性子の強度が100倍程度増加する。また、中性子導管と呼ばれる鏡を並べたような装置を用いると、原子炉から30m以上離れた場所にあまり損失なしに中性子を導くことができる。
冷中性子源装置を
図5に示す。これらを利用することにより測定に不必要な
速中性子や
バックグラウンドを低下させることができ、実質的な測定効率の向上や遮蔽の低減がはかられる。検出器に関しても多数の
3He検出器を並べたり、一次元、二次元の位置検出器やイメージングプレートを用い、同時に広範囲の角度で中性子を検出することにより
検出効率の向上がはかられている。
中性子がスピンの自由度を持っている事を利用し、これを一方向に揃える偏極素子、その方向を変えるスピンフリッパー、これを磁場中で回転させる歳差磁場等も開発され、磁気構造の更に詳しい解明、スピンエコー法と呼ばれる微小なエネルギー変化の測定法等の偏極中性子散乱実験も実用化されている。現在でも新しい測定法や装置の提案、建設等が行われており、非常に多岐にわたる装置が設置、利用されているのがこの分野の特徴である(文献7)。
3.中性子回折・散乱の応用
中性子回折・散乱の研究手法は、最近まで物性物理の研究に用いられることが主であった。高温超伝導体や巨大磁気抵抗物質等の新機能物質における磁気構造の決定、格子振動(
図6参照)、磁気モーメントの揺らぎの測定(
図7参照)など中性子ならではの研究や、最近では液体、アモルファス、固溶体合金などのいわゆる乱れた系の原子配列に関する構造解析も盛んに行われている。
更に、最近では物性物理以外の研究分野、すなわち高分子、生体物質、化学、材料の研究などへの中性子散乱の利用が盛んになってきている。水和水を含むタンパク質等の構造研究も上記の中性子の特徴を活用して盛んになってきた(
図8参照)。これらの研究のもう一つの特徴としては、単に物質の原子レベルでの情報のみならず、もっと大きいスケールでの構造に関する情報が重要な点である。これらの系の構造の解明には、広い角度範囲における散乱の強度分布の情報が必要である。また、とくに散乱角0度付近の強度分布も有力な情報である。このために、主として用いられるのが中性子小角散乱測定法である。X線を用いても同様な測定手法は可能であるが、その透過能が小さいために、測定対象は炭素や繊維など軽元素からなる物質に限定されてしまう。中性子はこの点でX線よりはるかに有利であり、表面の影響を受けない厚い試料での測定が可能である。
原子炉や加速器から得られる熱中性子だけでなく、冷中性子源から中性子導管で取り出された低エネルギー中性子も用いられている。冷中性子を用いるとより0度に近い角度範囲の情報が得られる。この小角散乱により得られる情報は、例えば析出強化型合金における析出物のサイズ、形状、分布など濃度の不均一に関する情報である。これらは、材料の強度、寿命予測などに欠かせない基礎的な知見となる。中性子小角散乱測定例を
図9および
図10に示す。
実用的な例としては、航空機のタービンブレードの寿命を疲労により発生する析出物の成長量から予測する実験があげられる。高分子物質や生体物質では、分子が大きくその結晶構造や結晶の分布の様相は小角に現れる干渉性散乱による斑点の解析や、散乱強度の角度分布の解析から得られる。この場合には、中性子散乱の特徴である軽水−重水混合液に試料を浸し、その混合比を変えることにより、特定の元素の位置を際立たせる方法が用いられる。これらの物質は水素や水を多く含み、その位置がこれらの物質の性質に大きな影響を与えるので重要な測定方法である。
産業に密接に関係する研究としては、中性子回折による非破壊での材料中の応力−ひずみ分布の解析があげられる。金属やセラミックス材料の加工、熱処理、溶接、複合材料化などにより生じる内部ひずみや内部応力は、材料の強度、寿命に大きな影響を与える。従来は、X線やひずみゲージにより表面での測定のみしか行えず、内部の状態を測定することは困難であった。透過能の大きい中性子を用いると、直接内部のひずみ量が非破壊で測定できる。また、測定範囲を限定することによりひずみ分布も求められる。鉄鋼材料でも25mm厚の試料を2×2×2mm
3の微小容積で測定可能である。測定方法は各部位の結晶格子間隔の精密測定である。これよりある方向のひずみ量が求められる。これから応力を推定するためにはやや複雑な手続きが必要である。現在では、相当に複雑な形状の材料についても
有限要素法などの計算から内部応力を推定できるが、これの実証には中性子回折による測定が最も精度の良いデータを提供できる。中性子回折による残留応力測定例を
図11に示す。現在では、日本を含め世界各国でこの研究が進められている。材料中の結晶優先方位(テクスチャー)も材料の開発に必要な情報である。
実用面からは、物質により散乱されずに透過された中性子の強度を測定して、元素の中性子に対する有効吸収係数の違いを利用する(透過レントゲン写真測定に対応する)
中性子ラジオグラフィも材料の内部の状態(ひび割れ、水分や水素の浸透等)を解明するための重要な測定手段である。
(前回更新:2001年3月)
<図/表>
<関連タイトル>
JRR-3(JRR-3M) (03-04-02-02)
京都大炉(KUR) (03-04-03-05)
J-PARC計画とその利用研究 (07-02-01-15)
熱中性子導管の原理と応用 (08-04-01-03)
冷中性子の発生と応用 (08-04-01-04)
<参考文献>
(1)星埜禎男(責任編集):実験物理学講座22−中性子回折、共立出版(1976)
(2)平川金四郎:中性子物理の世界、講談社ブルーバックス(1983)
(3)山田安定ほか:中性子散乱研究の新しい展開、日本物理学会誌、46-12(1991)
(4)日本結晶学会誌:特集−中性子散乱による最近の研究、36(1994)
(5)加倉井和久、遠藤康夫:初等固体物理講座「中性子散乱入門」(その1)、固体物理、Vol.40、No.4(2005)、p.239-250
(6)日本原子力研究所東海研究所 研究炉部:研究炉利用ハンドブック 改訂2版(1999年)
(7)加倉井和久、遠藤康夫:初等固体物理講座「中性子散乱入門」(その3)、固体物理、Vol.42 No.7(2007)、p.407-430
(8)牧田知子、永澤耿、森田幸生、皆川宣明、大野英雄:Phonon dispersion relations of premartensitic β1-phase in AuZn alloy,ICNS’94
(9)吉田誠人ほか:JAERI NSI REPORT(1993-1995)
(10)鈴木淳市:近隣アジア諸国における原子力安全確保水準調査、平成11年度近隣アジア地域ワークショップ報告書(2000年3月)
(11)日本原子力研究所東海研究所 研究炉部:研究用原子炉 現状と役割(1998年)
(12)S.Itoh,y.Endoh,K.kakurai,H,Tanaka:Phys.Rev,Lett.74(1995),2375
(13)日本原子力研究所東海研究所 研究炉部:研究炉利用ハンドブック 改訂2版(データ資料編)(1999年3月)