<本文>
1.核分裂の発見とその影響
ウランの
原子核 に
中性子線 を当てると二つに分裂する現象、すなわち核分裂は1938年暮、ナチス政権下のドイツでオットー・ハーンらによって発見された。その衝撃的なニュースは、翌年1月中頃に学会参加のため渡米したデンマークの原子物理学者ニールス・ボーアによって米国の関係者に伝えられた。その伝聞は直ちに米国中に広まり、各地の大学で核分裂に関する研究が一斉に開始された。
イタリアの物理学者エンリコ・フェルミは、1938年12月にストックホルムでノーベル物理学賞を受賞したが、夫人がユダヤ人であったため、ムッソリーニ政権下の母国を棄て、家族とともにそのまま米国に亡命した。米国到着後まもなく核分裂発見のニュースが伝わり、彼は、コロンビア大学に招聘され核分裂の研究に取りかかった。フェルミやハンガリーからの亡命科学者レオ・シラードらの実験で、ウランの核分裂で新たに2個以上の
中性子 が発生することが確認され、核分裂の
連鎖反応 の可能性が明らかになると、核分裂研究はにわかに軍事的重要性を帯び始めた。連鎖反応を利用すれば、核分裂で発生するエネルギーを大量に取り出すことができるからであリ、その原理を強力な爆弾、すなわち
原子爆弾 として利用できる可能性が明らかになってきたためである。
核分裂が発見された当時のドイツは科学の最先進国であり、ハイゼンベルクを筆頭に原子核研究に携わる優秀な科学者が大勢いた。1939年9月、ポーランド進攻で第二次大戦の火ぶたを切ると、ドイツは旧チェコスロバキアのウラン鉱山を手中に収め、ウランの輸出を禁止する措置を講じた。こうした状況と、ドイツでウランの核分裂連鎖反応の研究が開始されているという情報から、連合国側の科学者達は、ドイツが原爆開発を始めているに違いないと考え始めた。特にナチスの手を逃れて米国に亡命したレオ・シラードやユージン・ウィグナーなどのユダヤ系科学者は、ドイツが先に原爆を手中に収めれば全世界がファシズムに支配されてしまうという危機感を強く抱いた。彼らは、そうした破局的な事態を避けるためには、米国が是非先に原爆を完成させなければならないと真剣に考えた。そこで彼らは、ドイツを追われアメリカに移住していたアインシュタインを訪れ、彼の名前で核分裂研究への国の支援を促す手紙を書き、ルーズベルト大統領に送付した。
ドイツのファシズム支配への危機感は、ユダヤ系の亡命科学者にとどまらず、
放射線 や原子核物理の研究にかかわっていた米国の科学者の間にも広まっていった。特に、
サイクロトロン の発明で1939年にノーベル物理学賞を受賞したカリフォルニア大学バークレイ校のアーネスト・ローレンスや、
ガンマ線 と
電子 の相互作用に関する研究で1927年にノーベル物理学賞を受賞したシカゴ大学物理学部長アーサー・コンプトン、ワシントンのカーネギー研究所長バネバー・ブッシュ、ハーバード大学総長ジェイムズ・コナントら米国科学アカデミーの主要メンバーは、国防への科学研究の貢献の重要性を強く認識しはじめていた。彼らはワシントンのブッシュを通じ大統領に直接働きかけ、1940年6月に国防研究委員会を組織し、さらに1年後には科学研究開発局を設置し、原爆研究への政府の支援と関与を強化していった(
図1 参照)。
2.マンハッタン計画
こうして1942年9月に、米国の原爆開発は「マンハッタン計画」として本格的な国家軍事プロジェクトとなったが、その前年に起きた二つの出来事がそうした政府の決定を促す大きな要因となった。その一つは、ドイツから英国に亡命した二人の科学者、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの提言をもとにした、MAUD委員会報告(英国、原爆フィージビリティ検討委員会の暗号名:Military Application of Uranium Disintegration)と呼ばれた英国政府の調査報告書が1941年夏に米国に手渡されたことである。この報告書は、初めてウラン235を用いた原爆の具体概念を提示し、また
天然ウラン 中に0.7%しか含まれないウラン235の濃縮法を示すことにより、原爆の実現の可能性を明らかにした。ウラン235の濃縮法については、既に米国でも、
重水 の発見でノーベル化学賞を受賞したコロンビア大学のハロルド・ユーリーらが
ガス拡散法 や遠心分離法についての研究を開始しており、またカリフォルニア大学のローレンスは、サイクロトロンの原理を応用した電磁分離法の研究を進めていた。
もう一つの出来事は、1941年春、カリフォルニア大学バークレイ校で、グレン・シーボーグらが、中性子照射したウラン中に生成するプルトニウムの分離に成功し、さらにそれがウランと同様に核分裂を起こすことを確認したことであった。この発見により、天然ウランの核分裂連鎖反応炉(すなわち原子炉)でプルトニウムを生産し、それを化学分離することによっても原爆を作ることが可能となった。こうして同年7月、コロンビア大学のフェルミらは、
黒鉛 と天然ウランからなる体系での核分裂連鎖反応に関する本格的な研究を開始した。
これらの研究が進む中、1941年12月、科学研究開発局のブッシュは関係者をワシントンに集め、原爆に関する研究開発の目標明確化と体制強化を図った。ウランの濃縮法に関しては、ガス拡散法、電磁分離法、および遠心分離法の3種類の方式の開発を進めることとし、それぞれ、コロンビア大学のユーリ、カリフォルニア大学のローレンス、およびスタンダード・オイル社の研究者エジャー・マーフリーが責任者となった。原爆に関する設計研究と、新たに有望なオプションとなってきた連鎖反応炉によるプルトニウム生産に関する研究はシカゴ大学のコンプトンが指揮をとることとなった。折しも日本軍のハワイ真珠湾攻撃(1941年12月)により米国自身も第二次大戦に加わることになり、軍事研究の優先度は一層高くなっていった。年が明けてまもなく、コンプトンは、それまでコロンビア、プリンストン、シカゴの3大学に分散していた連鎖反応に関する研究をシカゴ大学に集約し、「冶金学研究所」(Met Lab.Chicago’s Metallurgical Laboratory)を発足させた。こうしてフェルミやシラード、ウィグナーらがシカゴ冶金学研究所に結集し、連鎖反応に関する研究や、
プルトニウム生産炉 の概念の検討に拍車がかかった。また、カリフォルニア大学バークレイ校からシーボーグらもシカゴに招聘され、プルトニウムの分離研究も本格化した。そして1942年12月2日、フェルミの指揮下で、天然ウランと黒鉛からなる人類最初の原子炉 CP-1(Chicago Pile-1)が初臨界を達成した(
図2 参照)。
原爆の製造は、単なる研究にとどまらず、様々な大型施設の建設と運転が必要となることから、科学研究開発局のブッシュらは、これを陸軍の建設プロジェクトとして推進することを大統領に提言し、1942年6月に大統領はそれを了解した。こうして、9月にはその実質的な推進責任者として、巨大な国防省ビル(ペンタゴン)の建設に手腕を振るったレスリー・グローブズ准将(後に将軍)が指名され、彼の強力な指揮下で原爆開発は本格的な国家プロジェクトとして急速な進展を始めた。この計画推進の事務所がニューヨークのマンハッタンに設けられたことから、この計画推進組織は「マンハッタン工兵管区」と呼ばれ、計画そのものは「マンハッタン計画」と呼ばれることとなったが、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理が行われる一方、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入された。最終的には延べ60万人(ピーク時雇用約13万人)と約20億ドルの国家資金が投入されたが、この計画の存在についてはルーズベルト大統領や陸軍長官のヘンリー・スティムソンら限られた関係者のみに知らされており、議会への報告などは一切行われなかった。
3.原爆の製造
グローブズは、就任すると直ちにコンプトンやローレンス、ユーリーらから開発状況を把握し、各種プラントの建設に必要な民間企業の協力とりつけや用地の買収など、計画の立ち上げに奔走した。プルトニウム生産関連施設の設計・建設はシカゴ冶金学研究所の協力のもとで化学会社デュポン社が担当した。CP-1が初臨界を達成した2ヶ月後には、テネシー州オークリッジ(Oak Ridge,Tennessee : SITE-X)で、プルトニウム生産実証用の原子炉X-10と化学分離パイロット・プラントの建設が始まった。原子炉は1943年11月に初臨界を達成し、その年末には燃焼済みのウランからグラム・オーダーのプルトニウムの回収試験が開始された。オークリッジでのこうした成果が出る前の同年6月には、ワシントン州ハンフォード(Hanford,Washington : SITE-W)で本格的なプルトニウム生産炉(
図3 参照)と化学分離回収工場(
図4 参照)の建設が開始され、これらは1944年秋から翌年春にかけ次々と完成し、原爆の原料となるプルトニウムの生産を開始した。
電磁分離法によるウランの濃縮に関しては、カリフォルニア大学のローレンスの指導のもとでストーン・アンド・ウェブスター社が設計建設を担当し、1943年春からY-12と呼ばれた工場群の工事がオークリッジで開始された。主要工程は巨大な電磁石を楕円形に配列したカルトロン(184inchサイクロトロン)と呼ばれる電磁イオン分離装置(
図5 参照)で、電磁石はミルウォーキーのアリス・チャルマー社で製造された。工程の一部は1943年末に完成したが、その後いろいろなトラブルや障害にあい、全体が完成し、安定した運転ができるようになったのは1945年春ころからであった。一方、ガス拡散法によるウラン濃縮工場は、化学プラント・メーカーのケロッグ社が専用の子会社ケレックスを作って担当し、オークリッジに1943年秋から建設を開始した。K-25と呼ばれるこの工場は、地上3階、地下1階建てで、長さ約800m、幅約400mのU字型配置の巨大な工場(
図6 参照)で、1945年春から部分運転に入り、夏には全操業に入った。ガス拡散法による濃縮工場は一時目標期日までの完成が危ぶまれたため、熱拡散法による濃縮工場S-50の建設も急遽進められ、これも1945年夏には完成した。こうして、1945年6月ころからS-50とK-25で低濃縮ウランを生産し、それをY-12で高濃縮ウランに仕上げるという方式が確立し、7月中旬までに原爆に必要な量の高濃縮ウラン生産に成功した。
原爆の理論研究は、コンプトンの指揮下のシカゴ大学で、グレゴリー・ブライトや、カリフォルニア大学バークレイ校のロバート・オッペンハイマーらによって1942年始めころから開始された。マンハッタン計画が本格化すると、原料生産の拠点としてのオークリッジやハンフォードと別に、原爆の研究開発と製造を集中的に行う研究所の設置が必要となった。こうして、1943年3月、ニューメキシコ州の人里から隔離された台地にオッペンハイマーを所長とするロスアラモス研究所(Los Alamos,New Mexico : SITE-Y)が設立され、エドワード・テラーやハンス・ベーテ、リチャード・ファインマンなどの第一線級の科学者が多数集められた。ロスアラモス研究所は、1945年夏には1300人の科学者及び技術者を含む約6700人の研究組織に膨れ上がった。彼らは、その家族も含めて移住し、郵便物の検閲、名前の変更など外部との接触は厳しく制限されたが、戦争勝利のための重大任務を遂行するという意識と、オッペンハイマーの優れた指導により、極めてモラルの高い研究者社会が形成された。1943年暮からは、米英の協力協定に基づき、英国からオットー・フリッシュら20名以上の研究者がロスアラモスの原爆研究開発に合流し、ドイツに併合されたデンマークを脱出して英国に渡ったニールス・ボーアも重要メンバーの一人としてロスアラモスに滞在した。
原爆の型式については、当初「砲弾型」(Gun-type)とよばれるものの研究が中心であったが、プルトニウムの場合この型式が適用できないことが判明し、「爆縮型」(Implosion-type)という方式が考案され、後半はその研究に力が注がれた。1945年7月16日にプルトニウムを原料とする最初の爆縮型原爆が完成し、ロスアラモスから南に約300km離れた砂漠の地アラモゴード(Alamogordo)でトリニティ(Trinity)実験と呼ばれた人類初の核実験が成功裏に行われた(
図7 および
図8 参照)。
4.原爆投下
プルトニウム生産が始まり原爆製造の目処がたち始めた1945年4月12日、ルーズベルト大統領が急逝し、副大統領のトルーマンが新大統領に就任した。トルーマンは、大統領に就任してはじめて陸軍長官スティムソンからマンハッタン計画の詳細を知らされた。5月には原爆開発の関係者が競争相手として恐れていたドイツが降伏し、原爆の役割は日本を降伏させるための切り札的存在へと変っていった。科学者の中には原爆使用の反対はあったものの1945年8月6日に高濃縮ウランを用いた砲弾型原爆リトルボーイ(Little boy)が広島に、またその3日後の8月9日にはプルトニウムを用いた爆縮型原爆ファットマン(Fat man)が長崎に投下された。この2都市は原爆により、一瞬にして文字通り灰燼に帰し、多くの命が失われた。これを機に日本国政府は無条件降伏を求めるポツダム宣言受諾を決意し、8月15日に終戦を迎えた(
図9 参照)。
図10 にマンハッタン計画サイトマップを示す。
<図/表>
図1 マンハッタン計画を立ち上げた科学者達
図2 人類最初の原子炉CP-1
図3 ハンフォードのプルトニウム生産炉
図4 ハンフォードのプルトニウム分離回収工場
図5 オークリッジの電磁分離法によるウラン濃縮工場内部(Y12プラント)
図6 オークリッジのガス拡散法による巨大なウラン濃縮工場(K25プラント)
図7 人類最初の核実験(トリニティ実験、1945年7月16日)
図8 トリニティ実験の爆心地に立つロスアラモス所長オッペンハイマーとグローブズ将軍
図9 濃縮ウランを用いた砲弾型原爆リトルボーイおよびプルトニウムを用いた爆縮型原爆ファットマン
図10 マンハッタン計画サイトマップ
<関連タイトル>
再処理技術開発の変遷(歴史) (04-07-01-04)
ハーン、シュトラスマン、マイトナー、フリッシュによる核分裂現象の発見 (16-03-03-11)
フェルミのグループによる世界最初の原子炉CP-1 (16-03-03-12)
<参考文献>
(1) リチャード・ローズ(著)、神沼二真ほか(訳):「原子爆弾の誕生」(The making of the Atomic Bomb)、啓学出版、(1993年)
(2) ステファーヌ・グルーエフ(著)、中村誠太郎(訳):「マンハッタン計画」、早川書房、(1970年)
(3) レスリー・グローブズ(著)、冨永謙吾・実松譲共(訳):「私が原爆計画を指揮した;マンハッタン計画の内幕」、恒文社、(1964年)
(4) Vincent C. Jones:The Army and the Atomic Bomb,Center of Military History, United States Army,Washington,D. C.,1985
(5) Daniel Cohen:The Manhattan Project,Millbrook Press,Inc.,1999
(6) Rachel Fermi and Esther Samra: Picturing the Bomb,Harry N. Abrams,Inc.,1995
(7) Los Alamos National Laboratory: The Beginning of the Era 1943-1945,LASL-79-78,Los Alamos
(8) Leona Marshall Libby: The Uranium People,Crane,Russak & Company,Inc.,Charles Scribner's Sons,1979
(9) Fermi Laura : Atoms in the Family, University of Chicago Press
(10)Los Alamos 研究所 ホームページ:Los Alamos, Beginning of an Era,1943-1945