<本文>
1.シラードの発想
1933年シラードは次のように考えた。「もし中性子によって割れる元素があり、割れた際に2個以上の中性子が放出されるならば、このような元素を大量に集めることによって原子核連鎖反応が起こせることになる」。前年(1932年)にはチャドウィックが中性子を発見していた。
当時の精度の悪い原子質量のデータを用いると、ベリリウムは自発的に2個のアルファ粒子と1個の中性子に分解可能であり、もし1個の中性子がベリリウムに入射してこれを分解すれば、入射したものと合わせて中性子は2個になるから、これが更に別のベリリウムを分解することになり、これが繰り返されて、ベリリウムは次々に2個のアルファ粒子と中性子に連鎖的に分解していくように思われた(現在知られている原子質量のデータではこれは不可能である)。
ベリリウムの連鎖反応が不可能であることは、その後のデータから判明したが、このような機構によって進行し、莫大なエネルギーを解放するような連鎖反応は必ず発見されるに違いないとシラードは思った。1934年春シラードは上記のような連鎖反応を支配する法則をまとめて特許を出願した。ヒットラーによる軍事的利用を恐れたため、秘密特許とし英国の海軍省に委託した。
2.ボーアの予想
ハーン、シュトラスマン、マイトナー、フリッシュによって核分裂現象が発見されると、ボーアは原子核の液滴理論に基づき次のことを予想した。
1)中性子によって引き起こされる重い核の分裂では、核分裂片のでき方は多様であり、種々の原子番号、質量数を持ったものが生ずる。
2)実験データによれば、高いエネルギーの中性子入射では
ウランも
トリウムも同程度の確率で核分裂を起こしたが、低エネルギー中性子入射ではウランの核分裂は起こりやすくなるが、トリウムでは全く核分裂は起こらなくなる。このことは、ウランにはウラン235(0.7%)とウラン238(99.3%)があり、低エネルギー中性子入射で核分裂可能なのはウラン235のみであり、これは低エネルギーの中性子で極めて核分裂を起こしやすいためである。一方、トリウムはトリウム232のみから成り、低エネルギーの中性子入射では核分裂を起こさない。
3)ウラン238は、特定のエネルギーの中性子を極めて高い確率で吸収する(現在、共鳴吸収と呼ばれる)。
3.ジョリオのグループによる核分裂中性子の発見と原子炉の考案
フランスのジョリオ(Frederic Joliot、仏、1900〜58、イレーヌ・キュリーの夫)は、核分裂によって生じた分裂片は安定核に比べると著しく中性子の数が過剰であり、中性子を放出するに違いないと考え、ハルバン、コワルスキーと共同で実験に着手した。ジョリオたちは硝酸ウラニルと硝酸アンモニウムの溶液について、源から放出された中性子の拡がり方を比較した。実験の結果、ウランを含んだ溶液の方が中性子が遠方まで拡散することがわかった。ウランが分裂するたびに次々に中性子が発生し連鎖反応を起こしながら、中性子は遠くまで拡散していくことが明らかになった。1939年の4月になると、分裂によって発生する中性子は2個以上はあり、
中性子源がなくても連鎖反応が自立することも確認された。1933年以来のシラードの発想は現実となった。
ジョリオ達は直ちに原子炉の設計にとりかかった。
図1 に最初に考案された原子炉を示す。1939年5月1日にはスイス特許233011号として発効している。原子炉の主要部分の機能を次に示す。
1)燃料:天然ウラン板が用いられる。低いエネルギーの中性子が入射すればウラン235(0.7%)が高い確率で核分裂を起こす。
2)
減速材:
重水が用いられる。重水は中性子をほとんど吸収することなく、散乱によってそのエネルギーを下げる。重水中を拡散してきた中性子は、エネルギーが十分に下がっているので、燃料に入射すると高い確率で核分裂を起こす。
3)制御材:カドミニウム板が用いられる。カドミニウム板は表面に入射した低いエネルギーの中性子をほとんど吸収してしまう。ウラン板の代わりにカドミ板が炉内に入ると連鎖反応は停止する。
4)
冷却材:CO
2 ガスが用いられている。炭素も酸素も中性子をほとんど吸収しない。
当時、これらの主要材料のうち、重水だけが入手困難であり、大量の在庫はノルウェーのものが唯一であった。ヒットラーもノルウェーの重水を接収しようとしていたが、ジョリオ達はそれに先んじてノルウェーの重水をフランスへ運ぶことに成功した。しかし、フランスは第二次大戦でヒットラーに降伏してしまったため、原子炉の建設は不可能となった。ハルバンとコワルスキーは重水を持って英国へ渡り、ジョリオはフランスに残ってヒットラーに対する抵抗運動に参加した。
4.
マンハッタン計画
ヒットラーが台頭すると、アインシュタイン、フェルミ、ボーア、シラード、フリッシュなど、優れたヨーロッパの物理学者がヒットラーの迫害を逃れるため米国に渡った。これらの人々はヒットラーが原子爆弾を独占し世界を支配することを極度に恐れた。特にシラードは熱心で、アインシュタインを説得して当時の米国の大統領ルーズベルト宛に原子爆弾開発を要請する手紙を出させることに成功した。米国の原爆開発計画は暗号名でマンハッタン計画と呼ばれた。
ヨーロッパの優れた学者達に米国の若手の学者、技術者が協力し、米国の工業力と経済力がこれを支えた。1940年以降、秘密保持のため原子力開発に関係する研究報告は非公開となった。
5.指数実験
原子炉を設計するための基礎データを得るため、フェルミは
図2 に示す指数実験装置を考案した。
黒鉛のブロックを積み上げた直方体の体系であり、ウランの塊が周期的に配置されている。中性子源は一番下に置いてあり、ここから発生した中性子はウランの塊に入射して核分裂を起こし、
増殖しながら上方へ拡散していく。黒鉛は減速材であり、この中を拡散するうちに中性子のエネルギーは下がり、ウラン235の核分裂を起こしやすい条件になる。この体系内に入れられた箔(インジウム、ロジウム等)の放射化とその分布によって体系内での核分裂連鎖反応による中性子の増倍を知ることができる。
記録によると、このような指数実験装置は29通りのものが組み立てられ、いろいろな条件でのデータが取得された。その結果、
1)黒鉛ブロックの中にどのようにウランの塊を配置すれば連鎖反応が起こりやすいのか。
2)どの程度体系を大きくすれば、中性子のもれが減り連鎖反応が中性子源なしに自立できるのか。
について十分なデータが得られた。
6.最初の原子炉CP-1
指数実験で得たデータに基づき、最初の原子炉CP-1が組み立てられた。原子炉は最初の計画ではシカゴ郊外のアルゴンヌの森の中に建設されることになっていたが、建物の完成を待てなかったため、シカゴ大学のフットボール場のスタンドの下を利用した建設を急いだ。1942年11月4日に炉の組み立てが始まり、一か月後の12月2日に試運転が行われた。
図3 にCP-1の構造図、
図4 に見取り図(想像図)を示す。ウラン燃料約42トン、黒鉛減速材350トン、
制御棒にはカドミニウム板とボロン含有鋼鉄板が用いられた。
原子炉の開発に参加した43人が試運転に立ち会った。フェルミを始め、コンプトン、シラード、ウィグナー、ジンなど有名な学者も含まれていた。試運転はフェルミの総指揮の下に行われた。
図5 がそのときの記録である。
臨界に達したときの様子を、フェルミの助手を務めたアンダーソンの手記から引用する(文献4、132〜133頁から、前後関係のため修正した箇所がある)。
「カドミニウムの制御棒は一段一段ゆっくりと引き抜かれた。−−−−−最終段階に到達したとき、次の段でフェルミは原子炉が臨界に達する確信を得た。カドミニウム棒を必要な位置まで引き出したとき、中性子強度の増加は目に見えて早くなった。最初、計数管の音はチクタク、チクタクと聞こえていたが、この音は急速に増え、しばらくするとゴウゴウとうなるような音になった。計数管はもはやこれに追随できない。この瞬間グラフを描くスイッチが入る。すべての人は急に押し黙り、記録のペンが山なりに振れるのをじっと見つめた。それは恐ろしいような沈黙であった。だれもがスイッチの意義を理解していた。あまりに高い強度の領域を相手にしているので、もはや計数管はこれ以上対応できないのである。何度も何度も記録計の目盛りを切り換えねばならなかった。ますます急増する中性子の強度に呼応する必要があったからである。急にフェルミが手を上げた。そして、”炉は既に臨界に達した。”と宣言した。そこにいる人はだれもそれを疑わなかった。そして、どうしてフェルミが炉を停止させないのかと皆がいぶかり始めた。しかし、フェルミは全く冷静そのものだった。彼はそのあと1分、そしてまた1分待った。皆の心配が頂点に達したように見えたとき、彼は命令した。”ジップをおとせ。”ジンがジップのロープをゆるめた。制御棒が落下して炉に挿入され、中性子の強度は突如として低下した。−−−−− だれも笑わなかった。だれもが興奮していた。彼らは歴史の中の偉大な瞬間の証人となったのである。」
反応度温度係数など重要なデータを取得した後、CP-1は3ヶ月で
解体されてアルゴンヌの森に完成した建家に移設され、CP-2と名付けられた。これが今日のアルゴンヌ国立研究所(ANL)の発足となった。
<図/表>
<関連タイトル>
チャドウィックによる中性子の発見 (16-03-03-09)
原子力・放射線にかかわるノーベル賞受賞者 (16-03-03-13)
<参考文献>
(1)レオ・シラード著、伏見康治、伏見諭 訳、シラードの証言、みすず書房、1982年、21-23頁
(2)吉川秀夫、時代を先駆けた男達、日刊工業新聞社、1989年
(3)伏見康治、時代の証言、同文書院、1989年、150-160頁
(4)J.ウィルソン編、中村誠太郎、奥地幹雄 訳、われらの時代に起こったこと、岩波、1979年、91-144頁
(5)H. A. Boorse and L.Motz, The World of the Atom Basic Books, Inc.(1966), p1637-1651
(6)A. Edword Profio, Experimental Reactor Physics, John Wiley & Sons(1976)p12-26
(7)Bohr, Phys. Rev. 55(1939), p418
(8)Joliot, Halban, Kowarski, Nature 143(1939), p470
(9)原沢進、原子炉入門、コロナ社、1962年、 2頁