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<概要>
 静岡県・焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日未明(以下、日本標準時)太平洋マーシャル諸島・ビキニ環礁東方海上160kmの公海で操業中に米国がビキニ環礁で実施した水爆実験による放射性降下物(珊瑚礁が破壊された細かいチリと核分裂生成物を含む白い灰で、通称「死の灰」と呼ばれる)に見舞われ、船もろとも白い灰を被り乗組員23名は高濃度の放射性降下物で汚染した。異常を感じた第五福竜丸乗組員は操業を打ち切り、全速力で焼津港に向かい3月14日に帰港した。この間、乗組員は放射線による火傷、頭痛、吐きけ、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など急性放射線症状を呈し、帰港後「急性放射線症」と診断されて東京大学附属病院および東京国立第二病院(現在の国立国際医療センター)に入院した。23名の被ばく線量は個人により異なるが全身線量で最低1.7Gy最大6.9Gyと評価された。通信士の久保山愛吉氏(40歳)が9月23日に死去、日本人初の水爆による犠牲者となった。水爆実験による大気放射能汚染は地球規模に拡大し、海水、漁獲物(マグロ)の放射能汚染は北太平洋全域に及んだ。この水爆は、以上の被害のみならずマーシャル諸島の住民へも被ばくによる影響をあたえた。
<更新年月>
2006年06月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.原爆開発当時の背景
 1945年8月6日広島に、9日長崎に原爆(爆発力はTNT火薬で20キロトン相当)が投下され、15日に太平洋戦争が終った。そして、翌年の1946年から、米国は北太平洋赤道海域のマーシャル諸島ビキニ、エニウェトク環礁を実験場とし、原水爆実験を開始した。
 1949年8月26日にソ連(当時、以下同様)は、原爆を開発し最初の爆発実験を行った。原爆技術を独占できなくなった米国はソ連に対抗し、より強力で破壊力のある核兵器の開発を目的に1950年1月31日、トルーマン大統領は水爆製造の命令を下した。
 1952年11月、米国はエニウェトク環礁で液化二重水素(Liq.2H)と三重水素(Liq.3H)を熱核反応実験装置内で核融合させる水爆予備実験を行った。
 翌年の1953年8月12日、ソ連は固体の重水素化リチウムを用いた世界最初の実戦用水爆の爆発実験に成功した。
 ソ連に引き続き翌年の1954年3月1日、米国は重水素化リチウム型水爆の爆発実験をビキニ環礁で実施した。この水爆はビキニ型水爆と呼ばれ、原爆を重水素化リチウムと天然ウラン(ダンパーと呼ぶ)で取り囲んだ構造である。この水爆は、起爆用原爆の核分裂(Nuclear Fission)、原爆の高熱による重水素化リチウムの核融合(Fusion)および天然ウランの核分裂(高速中性子238Uが核分裂、Fission)の三種類の核反応を利用するもので、「3F爆弾」と呼ばれ、核分裂生成物を多く発生するので「汚い水爆」と呼ばれるものである。また、この水爆の名称は「ブラボー(BRAVO)」で爆発力はTNT火薬15メガトン相当であった。3月1日から5月14日にかけて6回計画された一連の大気圏内原水爆実験キャッスルシリーズの第1回目がブラボーの水爆実験である。キャッスルシリーズ・ブラボー水爆の火球を図1に示す。第五福竜丸はこの大気圏内水爆実験に遭遇し、惨劇が始まったのである。
2.第五福竜丸の被ばく状況
 第五福竜丸は1947年4月にカツオ漁船「第七時代丸」として和歌山県古座町で進水した140トンの重構造木造漁船(遠洋漁船)である。1953年静岡県でマグロ漁船に改造され、「第五福竜丸」と命名された。以来、母港は焼津港となった。
 1954年1月22日に第五福竜丸は第4回目の遠洋出漁のため焼津港を出航し、図2に示すような航海でマグロ延縄(はえなわ)漁を行いながら、3月1日太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁東方海上160kmに達した。この位置は水爆実験のため米国が設定していた「危険区域」外であり、第五福竜丸はここでマグロ延縄操業を行っていた。
 被ばく当時の状況は、「第五福竜丸ものがたり(文献1)」によると午前3時45分、乗組員は突如西の空が明るく輝き、いちめん黄色から赤く染まり水平線から大きな火のかたまりが浮かぶのを目撃した。乗組員は太陽が昇ったと叫んだ。数分後に大爆発音がとどろいた。3〜4時間たつと空全体をおおった雲から白い灰のようなものが落ちてきて、次第に雪が降るように降りそそぎ、甲板に足跡がつくほどに積もった。7時頃から約4、5時間白い灰が降り続き、異常を感じた第五福竜丸乗組員は操業を打ち切り、焼津港に向かった。また、この間、白い灰は乗組員の顔、手、足。髪の毛に付着し、お腹のまわりにもたまった。鼻や口からも体内に吸い込んでしまった。白い灰が付着したところは放射線により火傷の状態になった。乗組員は口々に頭痛、吐きけ、目の痛みを訴え、顔はどす黒くなり、歯茎から血がにじみ出た。髪の毛を引っ張ると根元から抜けてしまうなど、全員が急性放射線症状になってしまった。
 第五福竜丸乗組員23名は2週間後の3月14日焼津港へ帰港した。この事件は読売新聞の3月16日付朝刊に「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」の見出しでスクープされ、瞬く間に日本はもとより世界的なニュースとなった。乗組員が持ち帰った白い灰の分析が行われ、灰の本体は炭酸カルシウムと水酸化カルシウムでこれに核分裂生成物が付着した放射性降下物であることが分かった。
3.放射性降下物被ばくによる人体影響
 乗組員は約4、5時間も白い灰を全身に被りながら作業を行い、これが放射性降下物であることに気付かず船体も人体も十分洗浄もしないまま、すなわち、船体が強い放射能汚染のある状態で帰港までの2週間船上生活をしたので外部被ばくと内部被ばくの両方を有することになった。白い灰の分析の結果を3月1日時点に外挿して白い灰の放射能濃度を評価すると51.8GBq/gであった。また、焼津帰港後十数日後に測定した第五福竜丸の船上の線量は1時間当たり約1.1mGyであった。乗組員23名全員が帰港後「急性放射線症」と診断されて、東京大学附属病院(7名)および東京国立第二病院(16名、現在の国立国際医療センター)に入院した。乗組員の被災当時の年齢は18歳から39歳で平均25歳であった。
 乗組員23名の2週間で受けた被ばく線量は、個人により異なるが外部被ばく線量は少ない人で1.7−2.2Gy、多い人で6.6−6.9Gyと評価された。被ばく後206日目に死去された久保山愛吉(40歳)氏の被ばく線量は5.1−5.9Gyであった。ヨウ素による甲状腺の等価線量は0.76−4.56Gyで外部被ばく線量に比較して少なかったことが分かっている。
 臨床症状としては、事故後間もなく疲労、頭痛、吐きけ(悪心)、嘔吐、目の痛み、脱毛が観察された。また、体表面に付着した放射性降下物によるβ線皮膚照射で、皮膚に紅斑、炎症、水泡、びらん(ただれ)、潰瘍が認められたが、数か月で治癒し、がん化するようなことは無かった。造血器障害は初期にはリンパ球の減少が全員に見られたが、被ばく第8週から回復し始め、白血球数は約8年後に正常に戻った。生殖細胞は2〜3か月後には殆ど消滅したが、数年後には完全に回復した。染色体検査では、現在も異常の増加が認められているが、臨床的症状に結びつくものではなかった。甲状腺については、1965年の検査で1例甲状腺腫が認められたが翌年の検査では消えていた。その後も甲状腺腫は認められていない。その他の症例は正常な甲状腺機能を示した(文献5、6)。
4.環境汚染の状況
 この水爆実験による大気放射能汚染は地球規模に拡大し、海水、漁獲物(マグロ)の放射能汚染は北太平洋全域に及んだ。焼津港に荷揚げされたマグロやサメは、第五福竜丸帰港の翌日、3月15日に東京、大阪等の市場に既に出荷されていた。3月16日の朝これが放射能で汚染したマグロやサメであることがわかり、マグロを食した人の不安が広まり「原爆マグロ」騒動が始まった。汚染したマグロは地中深くに埋めたり、或いは沖合に投棄された。全国の家庭で魚は敬遠され市場が一時閉鎖されるところもでた。米国の一連の水爆実験が続き、この年の12月末までの集計によると、放射能で汚染した日本の漁船は856艘、廃棄されたマグロは456トンであった。
 5月になると強い放射能を含む雨が日本各地に降り、不安は日本全体に広がった。1954年3月から12月の期間、太平洋の各所で放射能により汚染した魚が漁獲された。放射能汚染魚が漁獲された太平洋上の各位置を図3に示す。また、これは海水汚染の状況を示す図でもある。政府は、ビキニ周辺海域を調査するため科学調査船・俊鶻丸をビキニ海域へ派遣した。その結果、ビキニ環礁西方110kmは表1に示すような汚染状況であることが分かった。太平洋における米国の水爆実験は、この後も続き、1956年4月には、ビキニ・エニウェトク環礁で13回原水爆実験が行われた。
5.マーシャル諸島住民の被ばく
 マーシャル諸島の3つの珊瑚礁に住む住民200名以上が、水爆「ブラボー」の放射性降下物(フォールアウト)により被ばくした。被ばくは、混合放射性ヨウ素(131I、132I、133I、134I、135I)とテルル(Te)による甲状腺被ばく、およびその他のフォールアウトによる外部被ばくである。
 γ線による全身外部被ばく線量は0.11−1.9Gyであった。ガンマ線および放射性ヨウ素による平均甲状腺被ばく線量は、子供で3−52Gy、成人で1.6−12Gyと推定されている。事故後32年の追跡調査期間中に甲状腺がんが女性130人中7例、男性113人中2例が認められた。甲状腺がんについて算出されたリスク係数は、1.4×10−4Gy−1であった。短半減期のヨウ素(132I、133I、134I、135I)による甲状腺被ばく線量は、131Iによる線量の2〜3倍であった。
6.その後の第五福竜丸
 その後、第五福竜丸は、政府(文部省)が買い上げ1954年8月に焼津港から東京に廻航され、東京港品川の東京水産大学構内へ移転した。ここで甲板等を新しい木材に張り替え放射能の汚染除去を行い、1956年同大学の学生訓練用練習船に改装して船名も「はやぶさ丸」に改名した。しかし、老朽化が進み、はやぶさ丸は1967年3月に廃船処分となり、東京湾の埋め立て地(東京のごみ捨場、通称「夢の島」)に水爆被災船「第五福竜丸」は、廃船として係留され朽ち果てる時を待つことになった。
 1968年3月10日朝日新聞の「声」欄に、「沈めてよいか第五福竜丸」(武藤宏一、会社員、26歳)と題する投書があった(文献1、p.25)。「第五福竜丸。それは私たち日本人にとって忘れることのできない船。決して忘れてはいけないあかし。知らない人には、心から告げよう。忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。−−−−原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう。いま、すぐに私たちは語り合おう。このあかしを保存する方法について。平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして。など」この呼びかけが人々の心を動かし第五福竜丸保存運動が始まった。そして、1976年に東京湾にのぞむ夢の島公園に第五福竜丸展示館が開館した(〒136-0081、東京都江東区夢の島3-2、電話:03-3521-8494、FAX:03-3521-2900、E-mail:fukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp、HP:http://www.d5f.org/top.htm)。展示館内の第五福竜丸を図4に示す。
 2006年3月1日には、第五福竜丸が太平洋ビキニ環礁での水爆実験で被災してから52年目となった。1976年の展示館開館以来、多数の特に小学、中学、高校生の来館者があり、人類の絶滅につながりかねない水爆・核兵器の恐ろしさを学び、「原水爆のない未来の創造へ」という船からのメッセージを受け止める大切な場となっている。
<図/表>
表1 ビキニ海域の汚染状態
表1  ビキニ海域の汚染状態
図1 キャッスルシリーズ・ブラボー水爆の火球
図1  キャッスルシリーズ・ブラボー水爆の火球
図2 第五福竜丸の航海と被災位置
図2  第五福竜丸の航海と被災位置
図3 太平洋で放射能汚染魚が漁獲された位置の分布
図3  太平洋で放射能汚染魚が漁獲された位置の分布
図4 展示館内の第五福竜丸
図4  展示館内の第五福竜丸

<関連タイトル>
フォールアウト (09-01-01-05)
放射線による外部被ばく (09-01-05-01)
原爆実験地周辺の動植物中の放射能 (09-01-05-10)
国連科学委員会(UNSCEAR) (13-01-01-19)

<参考文献>
(1)(財)第五福竜丸平和協議会:第五福竜丸ものがたり、第五福竜丸展示館(〒136−0081、東京都江東区夢の島3-2、電話:03-3521-8494、FAX:03-3521-2900、E-mail:fukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp、HP:http://www.d5f.org/top.htm)、(2000年1月22日)
(2)(財)第五福竜丸平和協議会:第五福竜丸パンフレット(第五福竜丸展示館)
(3)(財)第五福竜丸平和協議会:母と子で見る第五福竜丸(株)草土文化(1999年4月5日)
(4)松岡理:放射性物質の人体摂取障害の記録、日刊工業新聞社(1995年10月12日)
(5)熊取敏之:訪問記−放射線障害の治療に生きる−、放影協ニュース、No.20、(財)放射線影響協会(1999.7)
(6)(財)第五福竜丸平和協会:写真でたどる第五福竜丸(2004年3月1日)
(7)三宅泰雄:かえれビキニへ、水曜社(1984年)
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