<本文>
自然
放射能、即ち自然界に存在する
放射性物質は、現在までに数多くの種類が発見されている。本項では、天然の物質から放射線が放出されることを発見したベクレルの業績及び、天然物質の中から放射性元素 Ra(ラジウム)と Po(ポロニウム)を発見したキュリー夫妻の業績について述べる。
1.ベクレルによる放射能の発見
1895年の
レントゲン(
Roentgen)によるX線の発見の後、フランスのポアンカレ(H.Poincare)は1896年1月、X線が
蛍光を帯びたガラスから出ること、また蛍光物質を光らせる性質があることから、蛍光や隣光を出す物質は普通の光の他にX線も出しているのではないかとの考えを示した。これを受けて多くの実験が行われ、誤った実験結果も多く報告された。
このような中で、1896年2月、フランスのベクレル(H.Becquerel)は、「強い隣光を出す
ウラン化合物(硫酸ウラニルカリウム)の結晶を、黒い厚紙で遮光した写真乾板上において数日間日光にあてたところ、乾板が感光しており、この結晶からX線と似たものが放出されたと考えられる。」と報告した(
図1 )。この時点では、ベクレル自身ウラン化合物から出る放射線と日光(または隣光)との間に何らかの関係があると考えていた。
ところがその後、同様の実験を重ねるために乾板上にのせた結晶を準備したが、天候が不安定なために何時間日光に当てたのかはっきりしなくなった。その乾板を現像してみると日光に当てたものよりも強く感光していた。ウラン結晶を日光に当てた時間ではなく、乾板上に乗せている時間が感光に関係するという事実は、日光と無関係に何らかの放射線がウラン化合物から出ていることを示している。その後この放射線の性質が調べられ、この放射線を出す物質は、ウラン元素を含んでさえいればよく、それがウランの単体であろうと化合物であろうと、結晶であろうと水溶液であろうと、そういった物理的、化学的状態には全く無関係であること、透過線の強さは試料中のウランの含量に比例することが明らかとなった。
さらに、この放射線はX線と同様に空気を
電離することが明らかにされ、電離電流の測定によるウラン線の性質の研究も行われた。天然の物質からX線のような放射線が自発的に放出されること(この作用は後年キュリー夫妻によって「放射能」と名付けられた)を発見したベクレルはこの放射線を「ウラン線」と名付けた(「ベクレル線」とも呼ばれた)が、この作用はX線よりも弱かったためこの発見の重大さは当時殆ど認識されなかった。
2.キュリー夫妻(フランス、ポーランド)によるラジウムとポロニウムの発見
それから2年後、マリー・キュリー(Marie Curie)とピエール・キュリー(Pierre Curie)夫妻(
図2 )は、ウラン線に関するベクレルの論文に興味をもち、ウラン線の研究を始めた。彼等は従来用いられていた写真乾板よりも正確な放射線強度測定を行うため、
電離箱、キュリー式電気計、
ピエゾ電気計などを用いた(あまり知られていないことであるが、ピエール・キュリーはピエゾ電気現象の発見者であり、微弱電流測定に用いる水晶板ピエゾ電気計を発明している)。これにより10E−11アンペアオーダーの電流測定を可能とし、彼等の研究の強い武器となった。マリー・キュリーはこれらの装置を用いて研究を行い、ウラン線の強さはウラン化合物中に含まれるウランの量に比例すること、ウラン線はウラン化合物の温度や圧力等の状態に左右されず、絶えず自発的に放射されていることが確認された。また、ウラン線以外の化合物についても調べ、トリウム化合物もウラン化合物と同様の放射線を出すことを発見し、この様な放射線を出す性質を「放射能」と名付けた。
種々の化合物の持つ放射能を調査していたマリーは、天然銅ウラン鉱が純粋銅ウラン鉱よりもずっと強い放射能を持つことを見つけた。このことから、ウラン化合物がウラン以外の放射性物質を含んでいるのではないかと考え、
ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)という鉱物が強い放射能を持つことを突き止めた。彼等はさらに、試料の分離、放射能測定を繰り返し、1898年7月に Bi(ビスマス)に性質が似ている新しい元素を発見した。この新元素はマリーの祖国ポーランドに因んで「ポロニウム」と命名された。2人はその後もピッチブレンドの分析を進めた。ピッチブレンドの中には、その中に含まれているウランやポロニウムよりも放射能の強い物質があると考えた2人は、同じく1898年12月 Ba(バリウム)に性質が似た放射性物質があると発表した。この新元素は[放射するもの]という意味の、「Ra;ラジウム」と命名された。しかしこの時点では未だ純粋のラジウムは抽出されておらず、この発表に賛成しない科学者もいた。2人の次の仕事は1日も早く純粋なラジウムを抽出することであった。ラジウム抽出作業は多くの困難を伴った。裕福でない彼等は、原鉱はオーストリア政府から譲り受け、物理化学学校から借りた物置を実験室にして、夏の暑さと冬の寒さに耐えながら作業を続けた。そして4年後の1902年3月、ついに純粋ラジウム塩を抽出した。数十トンもの原鉱から得られたラジウムはたった0.1 グラムの白い粉末であったという。これらの業績により、マリーはノーベル物理学賞(1903年)及びノーベル化学賞(1911年)を、ピエール(1906年に事故死)はノーベル物理学賞(1903年)を授賞した。
マリー・キュリーはまた、古典化学的な手法を用いてRaの質量数を求め、「225(現在では226.03とされている)」という値を得た。なお、マリー・キュリーの親友であるアンドレ・ドゥビエルヌ(A.Debierne;ソルボンヌ大学)は1899年に、キュリー夫妻が用いたピッチブレンドの残渣の中に第3の新放射性元素があることを発見し、「アクチニウム」と名付けた。
<図/表>
<関連タイトル>
放射線の分類とその成因 (08-01-01-02)
放射能 (08-01-01-03)
放射線の写真作用 (08-01-02-04)
放射線の蛍光作用 (08-01-02-05)
X線と放射能の発見 (16-02-01-01)
宇宙線の発見 (16-02-01-02)
α線、β線、γ線の発見 (16-02-01-03)
人工放射能の発見 (16-02-01-05)
<参考文献>
(1) 山懸登:アトムとラドン−放射能の社会史、全国出版(1983)
(2) 日本原子力文化振興財団:原子力の基礎講座1、原子力の基礎
(3) シュポルスキー(玉木英彦訳):原子物理学III、東京図書(1968)
(4) 板倉聖宣:元素の発明発見物語、国土社(1985)
(5) 板倉聖宣:;原子・分子の発明発見物語、国土社(1983)
(6) ワインバーグ(本間三郎訳):電子と原子核の発見、日本経済新聞(1986)
(7) E.N.Jenkins :Radioactivity − A Science in its Historical and Social Context,Wykeham Publications LTD,London,1979.
(8) 国立天文台(編):理科年表 平成10年版、丸善(1997.11)
(9) I.G.ドラガニッチほか(著)・松浦辰男ほか(訳):放射線と放射能−宇宙・地球環境におけるその存在と働き−、学会出版センター(1996.1)
(10)日本原子力学会(編・刊):原子力がひらく世紀、1998年3月、p4