<概要>
地下を除く環境(大気圏内、宇宙空間及び水中)における核爆発実験を禁止する条約[部分的核実験禁止条約:PTBP:Partial Test Ban Treaty]が、1963年7月25日、モスクワで仮調印、8月5日に本調印された。この調印に参加した国は、1963年12月当時で米国、英国、ソヴィエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)の原調印国を含め111か国に達した。調印しなかったのはフランス(仏国)、中国のほか十数か国だけだった。
この条約は核不拡散の最初の試みといわれている。ただし、大気圏内での核実験による環境汚染(放射性降下物)の防止には効果があったが、地下での核実験(核兵器実験)を禁止していなかったため、核軍縮面での効果は限定的であった。当時、すでに地下核実験の技術を持っていた米英ソ3国は、地下において実験を継続できるが、後発核兵器国である仏中両国は実質的に核実験ができないため、米英ソ3国による核の寡占制を制度化するものとしてこの条約に調印しなかった。
なお、地下核実験を含むあらゆる環境における核実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が1996年9月の国連総会で採択されてからは、核実験禁止についてはCTBTに委ねることとなった。<更新年月>
2010年08月
<本文>
1.核兵器拡散の進行
1945年7月にアメリカ(米または米国ともいう)が原爆の開発に成功した。地球上に出現した最初の核兵器国アメリカは、「原爆独占」を背景に、ソヴィエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」、後のロシア(露))及びイギリス(英、英国)の原爆開発を阻止し、あるいは遅らせるとする国際連合(以下、「国連」)での原子力外交を展開した。1946年国連に提出された原子力国際管理案は、ソ連の反対で行き詰まり、米ソ英の核兵器開発競争が避けられなくなっていた。1947年から1953年までの7年間は、米ソ間の対話が失われ、核軍縮討議が不毛と化し、核兵器開発競争が激化の一途をたどった国際政治の暗黒時代−東西冷戦期−として特徴づけられる。この間、アメリカの機密化政策にもかかわらず、ソ連(1949年8月)、イギリス(1952年10月)が自力で原爆保有を達成した(表1参照)。
1953年8月にソ連が水爆実験を行った後の12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った演説は、一般に原子力平和利用の自由化提案(機密政策の転換)として知られている。演説の表題「平和のための原子力」(Atoms for Peace)は、米ソによる核の共同管理、換言すれば平和共存への移行でもあり、1954年の米ソ直接交渉で両国の合意を経て、米ソがともに参加する国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)として1957年7月29日に結実した。これにより、平和利用に対する監視装置としての役割を担う国際保障措置はIAEAの担当になった。IAEAの設立は「原子力平和利用の自由化」の到来でもある。
しかし、このような自由化のなか1960年2月にフランスが原爆実験に成功し、米ソは懸念していた核兵器の水平拡散に直面するとともに、1962年10月のキューバ危機は世界を核戦争の瀬戸際まで追い込んだ。このため、1963年の部分的核実験禁止条約と1968年の核兵器不拡散条約(NPT:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)の締結によって対処することになる。
一方、米ソ両国はIAEA保障措置のみならず、核物質の供与等による二国間原子力協定締結の相手国に対する直接の保障メカニズムをも導入した。1972年5月には戦略兵器制限暫定協定(SALT-I)が、1974年7月には地下核実験制限条約(TTBT)が、1976年5月には平和目的核爆発条約(PNE条約)が調印された。
2.条約調印までの経緯
(1)1963年の核兵器実験停止(「禁止」と同じ)交渉は、1962年12月末、ソ連首相フルシチョフ、米国第35代大統領ケネディの両首脳の間に交換された地下実験年間査察回数に関する手紙から始まった。フルシチョフ首相は1962年12月19日にケネディ大統領に書簡を送り、交渉打開のために必要ならば2〜3回の現地査察を認めてもよい。また、ソ連領内に3か所の封印地震計を設置することも認める、という提案を行った。
(2)1963年1月22日から、ワシントンで年間査察回数問題を中心に核実験停止についての米英ソ3国の交渉が開始した。参考として核実停止交渉に関係するアメリカとソ連の完全軍縮案の比較を表2-1と表2-2に示す。
(3)1963年4月、米英両国は、国別探知を基本とする核実験停止協定についての覚書を提出。このなかで、米英とも地下核実験について自国の探知組織に監視の基礎を置くことが採用された。表3に核実験探知に関する方式の米ソの変遷を示す。
(4)1963年6月10日、ケネディ大統領がアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」の演説を行う。この演説で、ソ連との平和共存を訴えると同時に、モスクワで米英ソ3国による核実験停止の会談を行うこと、アメリカは他国がやらない限りは大気圏内核実験を自発停止することを発表した。
(5)モスクワで開かれたの米英ソ3国核実験停止会談の結果、部分的核実験停止条約は1963年7月25日に仮調印。1963年8月5日に正式調印が行われた。発効は1963年10月10日。なお、この条約に調印した国は米英ソの原調印国を含め1963年12月には111か国に達した。調印しなかったのはフランス、中国のほか十数か国だけだった。図1に2009年8月現在の部分的核実験停止条約参加国を示す。
3.条約の概要
1963年8月に調印された「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」(Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water)を略して、「部分的核実験禁止条約」(Partial Test Ban Treaty:PTBT)という。この条約は前文と本文5条からなる。条約全文を表4-1と表4-2に示す。
前文:「米英ソ3国の主目的は厳重な国際管理のもとで、全面かつ完全な軍縮を達成する」と述べ、核兵器のすべての実験的爆発の永久的停止を達成することに努め、この目的のため交渉継続を決意、人間の住む環境を放射性物質で汚染することをなくすることを念願して、次のとおり協定した。
第1条:(1)この条約の各調印国は、その管轄または管理下にあるいかなる場所でも次の環境で核爆発実験またはその他いかなる他の核爆発をも禁止し、防止し、かつ実施しない義務を負う。(a)大気圏内、宇宙空間を含む大気圏外並びに領水(領海)及び公海を含む水中、(b)このような爆発が、その管轄または管理下で行った国の領土の限界外に放射能残渣を存在させる場合には、その他すべての環境。
これに関連し、本項目の規定は本条約の前文で、調印国が達成を求めている一切の地下核爆発を含む「すべての核実験爆発の恒久的禁止をもたらす条約」の調印を妨げるものではないことが了解されている。(2)条約の調印国はさらに、本条第1項の環境でのいずれかで行われ、または同項で言及された効果をもつようになる全ての地域におけるいかなる核兵器実験爆発またはいかなる形でも参加することを差し控える義務を負う。
この第1条第1項(b)項での「すべての実験的核爆発の永久に禁止することとなる条約」の調印とは、将来に合意される「地下を含むあらゆる場所における核爆発実験を禁止する条約」のことで、1996年9月の国連総会で採択された「包括的核実験禁止条約」(CTBT:Comprehensive Nuclear Test-Ban Treaty)の伏線がこの条項にある。なお、地下核実験を含むあらゆる環境における核実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が1996年9月の国連総会で採択されてからは、核実験禁止についてはCTBTに委ねることとなった。
第2条:いずれの締約国も、条約の改正を提案できる。
第3条:条約の署名、批准、加入、効力発生について規定している。
第4条:条約の有効期間は無期限である。現在、本条約は実質的にCTBTに取って替わっているが、国際条約上は今も有効である。各締約国は自国の利益が最高に損なわれると認めるときは、この条約から脱退する権利がある。
第5条:条約の正文は、英語及びロシア語とする。
4.条約がもたらしたもの
大気圏内での核実験による環境汚染(放射性降下物)の防止には効果があったが、地下での実験継続を許容したため、核軍縮面での効果は限定的であった。核不拡散の最初の試みといわれる。この条約の下では、すでに地下核実験の技術をもっていた核先進国である米英ソ3国は、地下において実験を継続できるが、技術的に遅れている他の国は実質的に地下核実験ができないため、当時地下核実験の技術を持たなかったフランス、中国のほか、非核保有国の核実験を制限しようとする意図もあった。後発核兵器国であるフランスと中国は、米英ソ3国による核寡占体制を制度化するものとして、この条約に加盟していない。
部分的核実験禁止条約の調印以降、核爆発実験は地下核実験に移行し、3か国の核実験による放射能汚染は地下に限定された。なお、米ソ間には、1974年7月に地下核実験を150キロトン以下に制限する条約(1990年12月発効)が締結されている。
核実験停止を実現するためには、地下核実験探知に関する合意が大前提であるのにかかわらず、その米ソは合意に難渋した。この膠着状態を打ち破る契機となったのは、ケネディとフルシチョフが当事者になったキューバ危機と、後発核兵器国の増大への懸念であり、核実験停止問題が焦眉の急の問題であることを確認しあっている。そこで急に浮上してきたのが「地下核実験」の禁止を棚上げにした部分的核実験禁止条約で、拙速のうちに合意が実現したのであった。なお、条約違反の検証についての規定がないのは、検証を国別監視によって行うからである。脱退については極めて緩やかな規定であるが、条約の侵犯について処罰の手段をもたず、中国とフランスが条約に参加する見通しがない当時の状況では、現実の国際情勢に対応したものであった。<図/表>