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<概要>
 原子力発電所事故の中で、周辺住民に対する緊急時対応が行われた事例として、1979年3月28日に発生したスリーマイルアイランド(TMI)原子力発電所2号炉の事故、及び1986年4月26日に発生した旧ソ連チェルノブイル原子力発電所4号炉の事故が挙げられる。TMI原子力発電所事故では、事故後2日に州知事が発電所から16km以内の住民の屋内退避、そして発電所から8km以内の妊婦と学齢前の乳幼児の避難の勧告を行ったが、実際にはかなりの数の住民が避難を行った。チェルノブイル原子力発電所事故では、当初屋内退避が行われ、事故後約36時間後にはプリピアチ市民約4万5千人の避難が行われるなど最終的に30km圏内の周辺住民約13万5千人が避難し、被ばく線量の低減が図られた。
<更新年月>
2004年03月   

<本文>
 原子力発電所事故の中で、周辺住民に対する緊急時対応が行われた事例として、1979年3月28日に発生した米国スリーマイルアイランド(TMI)原子力発電所2号炉の事故、及び1986年4月26日に発生した旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所4号炉の事故が挙げられる。これらの事故時における周辺住民に対する緊急時対応の概要は、次のとおりである。
1.TMI原子力発電所事故
 TMI原子力発電所は、米国ペンシルバニア州の州都ハリスバーグの南東約20kmの地点にあり、ここを流れるサスケハナ川の大きな中州であるスリーマイル島に設置されている。敷地周辺の人口は、1970年において 1マイル以内590人、2マイル以内2,400人、5マイル以内26,000人、10マイル以内140,000人であった。
(1)事故の経過
 事故発生から約3時間後の午前7時ごろ、1次冷却材の放射能濃度が急上昇し、燃料破損が明らかになり、運転直長は「所内緊急事態」を発令した。その後も、格納容器内を始め各所の放射線量率は上昇し続け、 7時25分ごろ、「一般緊急事態」が発令された。この連絡を受けた連邦政府、州等の各機関の緊急時対応チームが発電所周辺のモニタリング等の活動を開始した。原子炉は、事故発生約16時間後にほぼ制御可能な状態になったが、環境への放射性物質の放出はまだ続いていた。
(2)放射線のモニタリング
 事故後 2日たった3月30日の午前8時ごろ、TMI-2号炉の抽出・充填系から放射性気体が一時的に放出された。たまたま、補助建屋の排気筒の上空 40mでモニタリングを行っていたヘリコプターは、毎時 1,200mR(約10mSv/h)を観測し、NRCの対策責任者チーム(事故発生時にNRC内部に作られる組織)に通報した。ちょうどその時、対策責任者チームは、TMI-2号炉で廃ガス貯蔵タンクが満杯になった時にこの全量が放出されるという最悪の場合の影響を計算していた。この計算によれば、敷地境界で毎時 1,200mR(約10mSv/h)と推定を行っていた。偶然にも、毎時 1,200mR(約10mSv/h)という値が一致したため、対策責任者チームは混乱に陥り、測定と計算の場所の違いを誤認してしまった。なお、ヘリコプターが補助建屋上空で毎時1,200mR(約10mSv/h)を測定した時、敷地境界の線量率は毎時14mRであった。
(3)住民の退避勧告
 NRCの緊急対策準備室は、対策責任者チームの状況誤認に基づく勧告を受けて、ペンシルバニア州緊急時管理庁に対し、「用心のため、原子炉から16km(10マイル)以内の住民の避難」を勧告した。この勧告を受けた州放射線防護部は、各種の情報を検討した結果、避難の必要はないと確信し、その旨を州知事に通報しようとしたが、電話回線が混雑して連絡がとれなかった。NRCの委員にも、情報がスムーズに伝わらず、状況把握が困難な状態だった。午前10時ごろ、NRC委員長との間に電話連絡がとれ、その際NRC委員長は「念のため、発電所から東北方面8km(5マイル)以内の住民は、これから30分間は屋内に留まるように」と州知事に要請した。州知事は午前10時25分、ラジオ放送で「発電所から16km以内の住民は、屋内に留まるよう」放送した。この間、NRC対策責任者チームにも正確な情報が伝わり、先に行った避難勧告を取り消したが、これがどこまで伝えられたか疑問である。NRCの委員達は、この間も避難について検討を続けていたが、結論に達しなかった。11時40分ごろ、NRC委員長と州知事とは電話で連絡し、その結果州知事は「発電所から 8km以内の妊婦と学齢前の乳幼児の避難」を勧告し、同時にこの地域のすべての学校の閉鎖を命じた。これを聞いて、妊婦、乳幼児に留まらず、かなりの数の住民が避難を行った。
 さらにNRCでは、1次系内にたまっている水素ガスに、水の放射線分解で生じた酸素が加わって爆発する可能性について深刻に憂慮し始めた。これは、この時の1次系の条件では放射線分解によって生じた水素ガスは直ちに再結合することを見落したものであった。NRCは、水素ガスの抜き取りの方法を検討する一方、より大規模な避難計画の策定を急いだりした。4月2日までには1次系内のガスはほぼ除去され、また、爆発の危険もなかったことが明らかになった。しかし、この間様々な情報が乱れ飛んで、住民の不安と混乱を増大した。
(4)まとめ
 このように、結果から見ると、TMI事故での避難措置や、爆発にそなえての対応は、事故の状況の誤認、見落しによるもので、不必要なものであったことになる。事故時の情報の混乱などが、このような不必要な措置を取らせたものであるが、このことが住民に対して与えた精神的な影響は相当に大きかったと言わなければならない。
2.チェルノブイリ原子力発電所事故
 チェルノブイリ原子力発電所は、通称白ロシア−ウクライナ低湿地と呼ばれる大きな地区の東部の地域に位置し、ドニエプル河に流入するプリピアチ川の河岸にある。1986年初めの原子力発電所の30km圏内の人口は約10万人であり、そのうち原子力発電所から西方3kmのプリピアチ市には4万9千人が住んでいた。原子力発電所から東南15kmのチェルノブイリ市には、12,500人が住んでいた。チェルノブイリから南々東約130kmのキエフ市には約250万人が住んでいた。緊急時防護活動については、屋内退避、ヨウ素剤の配付、住民の避難、飲食物摂取制限の防護活動がとられた。
(1)住民の退避
 プリピアチ市民約 45,000人の屋内退避の通知は、事故発生の4月26日朝に行われ、これはソ連の独特の組織を利用した戸別訪問によるものであった。事故当日、直ちに市民を避難させずに屋内退避するよう決定したのは、プリピアチ市の放射線レベルが高くなかったこと、輸送用車両の調達及び避難経路の準備等が必要であったためとされている。プリピアチ市民に対しては、屋内退避の通達と併せてヨウ素剤の配付が行われた。ヨウ素剤の投与による効果については、その後の調査により住民の甲状腺被ばく線量は、ヨウ素剤投与措置をとらなかった場合より低かったとされており、また、ヨウ素剤の投与による重大な副作用は全く報告されていないとされている。
  4月26日夜遅くからプリピアチ市の放射線レベルが上昇しはじめ、屋内退避では避難基準の下限値25rem(250mSv)、さらに上限値75rem(750mSv)を超えることが明らかとなり、事故発生から約36時間後の4月27日14時から避難が開始された。これに先立ち、4月27日正午に自家用車所持者には、自家用車による避難許可が出された。その他の市民に対しては、バスが用意され3時間で避難した。また、避難に当たりその避難ルートの汚染に対し、放射性物質の舞い上がりを防止するため、表面をポリマーシートで覆う措置が講じられた。半径30km以内のプリピアチ市以外の住民は数日遅れて避難を開始したが、事故後1週間経ても完了しなかった。これは、多くの農民が家畜の放棄を拒否し、農民の避難の前に家畜の避難を必要としたためであったとされている。
(2)飲食物摂取制限
 事故後直ちに、牛乳、乳製品、葉菜類のヨウ素131濃度に関する誘導介入レベルとして、小児甲状腺の線量が年 30rem(300mSv)を超えないことを基準に、飲食物の摂取制限が設定された。また、このレベルは肉、家禽、卵等にも用いられた。セシウム137等の長半減期核種が主たる対象核種となった時点では、広範囲の飲食物に対して最初の1年の個人の線量が5rem(50mSv)を超えないことを基準に誘導介入レベルが設定された。
(3)防護活動
 放射線モニタリングについては、事故直後、気象観測組織、放射線モニタリング組織が緊急時体制のもとで活動を始め、事故の規模が判明すると、関係機関のもとに長期的課題にも対処できるように組織の拡大が図られた。ヘリコプター、飛行機、地上観測ステーション等により放射線モニタリングが実施された。
 汚染の拡大防止及び除染については、緊急救助作業の初期において、チェルノブイリ発電所、避難者、汚染を受けた周辺地域に対する除染活動が開始された。避難者が避難用バスで避難者収容所に到着した時点で、シャワー浴、衣類交換が行われ、衣服は破棄された。周辺地域を 3、10、30kmゾーンの3監視ゾーンとし、ゾーン境界において汚染の拡大を防止するため交通機関の厳重な放射線監視が行われた。放出された放射性物質の約半分は30kmゾーンに堆積しているものとされており、汚染された建物は、汚染除去溶液による除染が行われた。汚染された農耕地域は、植物の放射性物質の吸収を防止する薬剤の土壌へのスプレイ、埃を生ずる耕作の制限、耕作を許容する穀物の種類と処理法等汚染除去を行うための計画が策定された。汚染された森林は、放射性核種蓄積が行われる区域として危惧されており、防火手段の強化が図られている。また、ソ連は発電所地域からの汚染された水の河川への流入を防ぐため、堰の設置等を行った。
(4)医療活動
 医療活動は、保健省の管轄下にある国家保健衛生観察局により行われた。チェルノブイリ原子力発電所を所管する医学衛生部は、4月26日午前2時頃事故発生の情報を受け、最初の30〜40分の間に最初の29人の被災者の救援を行い、被災者を直ちに病院へ送った。また、4月26日午前 6時までに108人を、更にその日のうちに24人を入院させた。被災者は、地方及び地区の病院における初期診断後、モスクワの専門病院とキエフの医療機関へ送られた。入院患者のうち、事故から91日までに感染症および急性放射線障害で28名が死亡し、火傷などの合併症で2名死亡し、消火活動中に1名行方不明、合計31名の犠牲者が出た。
 物理学者、放射線医学者、血液学者及び研究室助手で構成された専門医療班は、12時間以内に現地へ到着し、事故後36時間以内に約350人の診察と約1,000件の血液検査を行った。避難住民に対する医療活動については、医師、看護婦、保健物理専門家及び助手から構成される 450人の医療班が組織されるとともに救急車両が準備された。医療活動のため、放射線の状況による交代を含み 1,240人の医師、920人の看護婦、360人の医師の助手、中等教育を終了した2,720人の助手、720人の医学生及び多数の国立研究所職員が動員された。健康上異常を示した避難住民は、地区の中央病院に設置された特別区域に入院させられた。また、避難後健康診断のため約18,000人が病院を訪れたが、いずれも深刻な問題のある人はいなかった。
<関連タイトル>
TMI事故の経過 (02-07-04-02)
TMI事故時の避難措置 (02-07-04-03)
TMI事故直後の評価 (02-07-04-05)
TMI事故の我が国における対応 (02-07-04-06)
TMI事故直後の米国における対応 (02-07-04-07)
チェルノブイリ原子力発電所事故の概要 (02-07-04-11)
米国における原子力防災対策 (10-06-02-01)
ロシアにおける原子力防災対策 (10-06-02-03)

<参考文献>
(1)原子力安全委員会 米国原子力発電所事故調査特別委員会:米国原子力発電所事故調査報告書 −第3次−、1981
(2)原子力安全委員会 ソ連原子力発電所事故調査特別委員会:ソ連原子力発電所事故調査報告書、1987
(3)放射線の線源影響及びリスク、国連科学委員会報告書、1988
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