<本文>
(1)原子力に関する当時の情勢
核の軍事利用については、米国を追ってソ連(1949年)、英国(52年)の原爆実験、更に水爆の開発(米国−52年、ソ連−53年)と慌ただしい動きがあったが、1953年に米国大統領アイゼンハワーが国連総会で「平和のための原子力」を提唱し国際管理機関の設置を提案した。
これを受けて、55年にジュネーブで第1回原子力平和利用国際会議が開催され、世界的に原子力の平和利用推進の機運が高まってきた。平和利用の最大の目標は、各国とも実用に耐える
動力炉の開発と展開であった。
我が国では終戦以来の原子力研究の全面禁止は52年の講和条約発効によって解禁されていたが、上記の機運に乗って、55年12月原子力基本法が制定され平和利用の基が築かれた。翌56年には行政機関として原子力委員会、総理府(現内閣府)原子力局が、開発機関として日本原子力研究所(以下、原研(現日本原子力研究開発機構))、原子燃料公社(以下、公社)が発足している。又、国際原子力機関(
IAEA)の設立総会が開催され、我が国も
IAEA憲章に署名、正式に加盟している(同年10月)。
原子力委員会は、原子力利用長期計画、発電用原子炉開発のための長期計画等を策定し、原子炉安全、
核燃料、核燃料経済の3専門部会に続いて再処理専門部会を59年1月に設置した。
この間、原研(現日本原子力研究開発機構)と公社は共に茨城県東海村に研究所、事業所(ウラン製錬工場、原子燃料試験所等)を立地した。一方日本原子力発電株(57年発足)の1号炉には英国からコールダーホール型炉の導入が決まり、50年に東海1号炉の原子炉設置許可が下りている。東海村は、我が国の原子力開発の一大センターの姿を現し始めてきたのである。
(2)原子燃料公社の再処理工場建設計画
再処理技術に関しては、57年5月にブラッセル(ベルギー)で、59年10月にハンフォード(米国)で、国際再処理シンポジウムが開催され、これまで最も機微な技術として秘匿されてきた多くの技術情報が公開され、内外の関係者を刺激し喜ばせた。
当時、核燃料の再処理の研究開発は原研(現日本原子力研究開発機構)と公社の公的機関に限られていた。59年に公社は企画室に再処理準備班を設置して調査、設計研究を開始し、60年に原研(現日本原子力研究開発機構)はホット試験施設の
モックアップ試験を始めた。
61年から公社は、既に多くの原子力機関が立地し地元の理解が得やすいと思われ業務上の都合もよい東海村の同社の東海事業所近辺を再処理施設敷地候補の一つとして考え、地質、地下水理、海洋、気象等について調査を予備的に行い、立地の技術的な可能性を探った。
原子力委員会再処理専門部会は61年に海外調査団を派遣して検討した結果、62年4月に報告書を提出、「68年頃の操業開始を目処に、天然ウラン及び低濃縮ウランの使用済燃料0.7〜1.0トン/日規模の工場を建設することが適当である」という答申を行った。又、原子力委員会は64年5月に再処理安全審査専門部会(以下、安審部会)を設置することを決めた。
これらを背景に、公社は海外技術導入による工場建設を計画し、米、英、仏、の10社に予備設計見積り依頼を行った(10月)。この結果、翌63年春、英国NCP社(主工程、全体取纏め)、米国AMF社(
前処理工程)、仏国SGN社(低レベル廃棄物処理)と契約交渉を開始し、10月に予備設計契約を締結した。この設計は64年12月に納入された。公社は64年9月に地元に再処理工場の立地を申入れるが、その経緯については次節で述べる。
その後の建設業務の主な推移は以下のようであった。
64年末から予備設計の内容を基に安審部会の予備ヒヤリングが始まった。詳細設計は65年から69年にかけてSGN社(日揮株が一部下請け)により実施された。68年8月、動力炉・核燃料事業団(67年に公社の業務を引き継ぐ、以下、動燃(現日本原子力研究開発機構))は「再処理施設の安全性に関する書類」を提出した。69年3月の安審部会の答申、69年11月の原子力委員会の「安全上支障のないものと認める」という答申を受けて、70年1月に内閣総理大臣の認可が下りた。70年12月SGN・日揮の共同企業体と建設工事契約を締結、71年6月から「設計及び工事の方法」の認可、「建築確認申請」の受理を待って現地工事が開始された。工事は74年10月の通水作動試験の終了で完了し、以降、化学試験、ウラン試験、77年9月の日米交渉妥結直後のホット試験開始となってゆくが、これらは別項に譲る。
(3)再処理工場の東海村への立地
公社は、国の政策の確定等の情勢の進捗に従い、第一候補と考えていた東海村東海事業所の敷地の東側を敷地として再処理工場を建設したい旨を、64年9月に茨城県、東海村はじめ関係地元自治体に申し入れた。
これに対して茨城県議会(以下、県議会)は12月に再処理施設設置反対を決議した。65年1月には勝田市議会も反対を決議した。県議会は同年9月水戸対地射爆撃場(以下、射爆場)の返還と
原子力施設の新増設反対を決議している。
66年2月県行政の長である県知事(岩上二郎氏)は、「燃料再処理施設と周辺環境との関連について」を県原子力審議会に諮問し、審議会は再処理部会を設置し応える事になった。同年9月には原電東海1号炉が営業運転を開始している。
ここで、水戸射爆場とは公社東海事業所の直ぐ南側に隣接する土地とその東側海面であり、駐留米軍が航空機による地上砲爆撃の訓練を行う施設で、防衛施設庁が管理していた。この射爆場と再処理施設の両立は難しいというのが関係者の大半の意見であり、特に地元はこの返還移転が受入れの絶対条件としていた。国もこの点を重視し、水戸射爆場移転について防衛庁(現防衛省)と科技庁(現文科省)との折衝が66年以来行われていた。
68年県議会は「原子燃料再処理調査特別委員会(以下、県再特委)」を設置したが、69年3月県再特委は海外調査、安全審査の結論を踏まえて、再処理施設の安全性は認めるがなお問題ありと県議会に報告した。このような情勢の下で、69年6月に県知事は水戸射爆場の返還が再処理施設設置受諾の条件の一つと意向表明し、9月に国は閣議で水戸射爆場の3〜4年内の移転を決定した。これらを受けて県議会は条件付きで再処理施設の設置の承認を決議した。70年1月勝田市議会も同じような条件を決議している。
県知事は70年4月に次の7項目の要望書を科技庁長官に提出した。
1)核燃料再処理施設は水戸対地射爆撃場の返還が実現してから稼働すること。
2)原子力施設の設置ならびに運転状況等に関し、地方公共団体が関与できるよう措置すること。
3)
放射線の監視とその結果に関し、地方公共団体が関与し得る第三者監視機関を本地域に設置すること。
4)原子力施設地帯整備計画の拡大(漁業関係を含む)と地元負担の解消に努めること。
5)地方公共団体が行う放射線監視に必要な器具機材の整備について、国は可能な限りの協力をする事。
6)核燃料再処理施設に伴う海洋調査の推進をはかり、安全性の確認に万全を期すること。
7)核燃料再処理施設は、現計画(1日当たり約 0.7トン)の規模を拡大しないこと。
科技庁長官は同年5月に1項に回答し、2項以下は原子力局長に回答させ同意の意向を表明した。これをもって、動燃(現日本原子力研究開発機構)の東海再処理施設の立地問題が漁業関係を除いて解決した。
県は71年6月に動燃(現日本原子力研究開発機構)の東海再処理施設に係わる建築確認申請を受理した。
県と各原子力施設設置者間には「原子力施設周辺の安全確保及び環境保全に関する協定(以下、
安全協定)」が締結されている。この条項に基づき新増設の同意、必要の際の立入検査の実施等について、動燃(現日本原子力研究開発機構)と地元との関係は再処理に関して、その後も円満に推移している。
(4)東海再処理立地の県漁連との交渉
再処理施設は僅かではあるが
放射性物質を含む廃液を海洋に放出するため、施設の沖合に漁業権を持つ漁業者とは再処理施設の設置についてより厳しい交渉が必要であった。
関係漁業者の取りまとめ機関である茨城県漁業協同組合連合会(以下、県漁連)が、66年8月の第3回水産茨城躍進大会で再処理施設の東海村設置反対の決議を行って以来、長い交渉が続いた。68年県漁連は再処理対策委員会を設置したが、再処理施設の設置には絶対反対を表明、幾度かの反対陳情を関係機関に行っていた。
69年の県議会の条件付き受諾決議を受けて、県漁連は同年11月に水産庁長官に東海村地先海域の海洋調査を依頼している(県知事も続いて依頼)。しかし、70年8月再び県知事に設置反対を陳情、71年には再処理施設に関する設計及び工事の方法認可の取消処分を水戸地方裁判所に請求(同年9月却下、72年12月東京高等裁判所で控訴棄却)、又72年1月に県漁連は施工法認可に対して科技庁に異議申し立てを行い、同年4月に却下といった状況であった。
双方当事者の合意への努力の末、東海村沖合への海中放出管は当初1kmであったが変更許可申請を行い1.8kmに延長された等の経緯もあり、74年夏に予定された建設の最後の大工事である海中放出管の敷設工事に対して、県漁連は同年6月に同意した。同年11月に懸案の「使用済燃料再処理施設設置に伴う漁業補償に関する協定」が締結され、12月には海中放出管を用いて染料拡散実験が行われ、県漁連は再処理工場の操業に同意した。
<関連タイトル>
東海再処理工場 (04-07-03-06)
<参考文献>
動力炉・核燃料開発事業団:動燃十年史(1978)