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<概要>
 軽水炉であっても炉内で沸騰を起こす、いわゆる沸騰水型炉は、制御が不可能と考えられていたため、実用にはならないと考えられていた。しかし、小規模な実験を通して、それが可能であるという見通しが得られたことから、アメリカの国立研究所で急速に研究開発が進展した。
<更新年月>
1998年05月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.沸騰水型炉の着想
 1950年代の初めの頃は、軽水炉であっても沸騰を起こす原子炉は設計が困難であるばかりでなく、実際に不可能であると考えられていた。すなわち、定性的に見て、蒸気ボイドが何らかの原因でつぶれると、反応度が増加し、出力が急激に上昇する。その後ある遅れをもって蒸気が発生し、反応度を減少させるであろうが、このメカニズムは、激しい振動を生じ、制御が困難であろうと考えられたのであった。もちろん、現在ではこのような出力振動は、制御可能な範ちゅうにあるが、初期の頃の原子炉機構に関する不十分な知識が、沸騰水型原子炉の開発着手を遅らせる結果となっていた。
 それにもかかわらず沸騰水型炉のアイデアが急速に具体化して行ったのは、第1に、水の蒸発の潜熱を利用し、能率のよい熱除去を達成することができること、第2に、原子炉内で直接的に蒸気が作られるので、熱交換器なしに直接タービンに蒸気を送ることができ、経済的である、第3に、自然循環を利用することによって、高価な循環ポンプが不要になる、などの理由からであった。

2.国立研究所での初期実験
 初期の沸騰水型炉の基礎的な実験は、アルゴンヌ国立研究所の研究グループによるBORAX(Boiling Reactor Experiments)による実験から開始された。これは発電用の動力炉を開発するというはっきりとした目的を持った実験計画であった。そのためまず安全性の確認が最初の研究目標となったのであった。
 当初の実験課題は、もし原子炉が安全装置の作動しない条件下で臨界以上に達したら、どのような状態になるかということであった。もちろん原子炉自体が出力上昇を食い止める要素を持っているとは考えられていた。燃料のドップラー効果による負の温度係数、軽水減速材の温度係数、燃料表面の急激な蒸気の発生によって水を排除することによる反応度の減少などであった。
 BORAXは、結局第5次実験まで行われた。いずれもアルゴンヌ国立研究所の原子炉工学部のグループにより、アイダホの国立原子炉試験場において行われた。それぞれの段階で実験の中心となった原子炉装置を、運転開始時期の順に並べると次のようになる。
   No.1 1953年7月  1.2 MW
   No.2 1954年10月 6.4 MW
   No.3 1955年6月 12.0 MW
   No.4 1956年12月 20.4 MW
   No.5 1962年2月 35.7 MW
 No.1からNo.4までは、4年計画できちんと計画通りに進められた。燃料としては、No.3までは板状燃料が用いられたが、No.4からは酸化ウランのロッド状の燃料棒、つまり現在のBWR燃料と同じ燃料ペレットが用いられるようになった。そしてNo.3からは実際に原子炉装置から得られた蒸気をタービンにつないで発電を行った。
 さらに興味あることには、No.4では燃料被覆材の破損実験まで行ったことである。いわゆる欠陥燃料を装荷した状態で原子炉の運転を行って、タービンに対する影響、あるいは冷却材としての水に対する影響を試験したのであった。このNo.4では、出力も20MWという実験炉規模にまで拡大されたのであった。
 BWRの開発は、このように安全性の実証試験から始められたのであった。広大なオイダホの原野に、点のように見える半地下式の簡素な実験炉建屋から、時に多量の蒸気を空中に放出しながら実験が繰り返し行われた。この開発協力こそが、BWRの誕生の基になったのである。
 1955年7月17日、BORAX No.3によって生産された電力は、近くのアルコという町へ送電されて利用された。一般家庭用の電力供給に原子力が役立ったという意味では、これが米国では最初のケースであった。
 アルゴンヌ研究所のジン所長をも加えたアルゴンヌの技術グループは、この一連の実験の結果を1955年の第1回ジュネーブ原子力平和利用会議において発表した。その中でこの実験が新しい型の原子炉の開発の基礎となることを予言したのであった。

3.沸騰水型実験炉
 そして実際にBWR実験炉(EBWR)の建設計画は、1700万ドルの予算がついて現実のものとなり、アルゴンヌ国立研究所の中に建設されることになった。全体の設計と炉心の製作は、研究所の原子炉工学部が担当した。また研究所に協力して、アリスチャーマー社がタービン発電機やポンプその他の機器の製作を担当し、バブコック&ウィルコックス社が原子炉容器の製作を行った。建設工事はシカゴのサージェント&ランデイ社が担当し、原子炉建屋はサマー・ソリット社が受け持った。
 この原子炉は、1956年12月1日に臨界になった。原子力潜水艦用の動力炉として初めて陸上に建造された最初の加圧水型炉の臨界に遅れること4年、米国での最初の加圧水型炉による原子力発電所の臨界に先駆けること約1年のことであった。
 最初、このEBWRは熱出力20MWtで運転されるように計画されていたが、かなり余力を有していたため、出力レベルを引き上げることとした。改造工事に1年8カ月をかけて、ついに100MWtまで増力することに成功した。この100MWtの出力を達成したのは1962年11月のことで、最初の臨界から6年後のことであった。
 このEBWRの成功によって、とにかく高出力のBWRの設計製作が可能なことが明らかになったのであった。しかし動力炉の開発は、単に実験炉で実証すればそれで完了という訳にはいかない。特に商業用の発電炉として完成させるまでには、更に多くの研究を積み重ねなければならなかった。
<関連タイトル>
沸騰水型原子炉(BWR) (02-01-01-01)
加圧水型炉(PWR)開発の発端 (16-03-01-05)
GE社によるBWR原子力発電所の開発 (16-03-01-08)

<参考文献>
(1) USAEC REPORTS, 1950−65
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