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1.GE社の選択
GE社は第2次大戦後、早くから原子力分野に乗り出し、積極的に事業を展開した。核物質生産工場となったハンフォードの運営委託をいち早く獲得し、全社をあげて原子力に取り組むことになった。原子炉ばかりでなく、再処理工場の建設にもかかわっていた。
一方、
原子力委員会と海軍とは、主に潜水艦用の
動力炉として
加圧水型炉を決定し、ウエスチングハウス(WH)社を主体に開発計画を進めるようになると、GE社も動力炉の面でWH社に立ち後れないようにと独自の炉系開発に乗り出した。これが中速中性子炉で、動力源ばかりでなく増殖炉の機能を果たすという意欲的な炉であった。
冷却材にナトリウムが用いられた。
これが一応完成して2隻目の原子力潜水艦シーウルフ号に搭載されたが、ナトリウムのシーリングの点に完全には自信が持てず、定格(計画)出力には達しなかった。そしてついには、この炉系は見送られることになった。GE社としては自らの炉系の開発に失敗したことになった。
加圧水型炉の方は、原子力潜水艦の動力炉として最初に華々しい成功を収めていた。
原子力発電が期待される1950年代の前半からは、この原子力潜水艦用動力炉を発電用原子炉として転用する計画が進められることになった。
WH社は、当然この計画の中心であった。そしてこの炉系による最初の
原子力発電所の建設は1954年9月から開始され各社が工事を分担したが、炉心の製作はもちろんWH社であった。
WH社のこのような動きに対し、ライバルのゼネラルエレクトリック(GE)社は、対抗上、加圧水型炉ではなくて、その後国立研究所で開発のめどが付けられた
沸騰水型炉をもって、原子力発電所の建設競争に乗り出すことにした。
電力会社の方も新しいBWRに関心を寄せ、建設の引合いがGE社に寄せられるようになると、GE社はBWRを独自に建設して経験を積んでおくことの必要性を感じた。実用規模の発電炉を完成させるためには、小型の
実証炉が是非とも必要であった。
2.GE社のBWR開発計画
55年暮れにGE社のバレシトス原子力研究所にバレシトスの地名を冠したVBWRを建設することが社内で決定された。費用は全額社内資金で賄われ、政府の補助金はゼロであった。早速、設計及び工事に
着手、57年8月に
臨界、10月に発電に成功した。そして生産された電力は、電力会社の商用電力網に乗せられ配電された。アルゴンヌのEBWRに後れることわずか1年未満のことであった。
VBWRの運転実績は、同社が予想していた以上に良好であった。VBWRは、単に同型炉の性能の確認、もしくは実証を可能にしたばかりではなく、実は技術者の訓練用にも非常に大きな役割を果たしたのであった。GE社の技術者の養成ばかりでなく、電力会社や他の関連企業の原子力技術者の養成にも利用され、その後のBWR市場の拡大に大きな役割を果たした。
GE社は、原子力発電の分野で圧倒的な市場制覇を狙ってBWR技術を完成すべく、1958年に新しい開発計画を展開することになった。同社の原子力開発部が総力をあげて取り組んだ「サンライズ計画」で、1965年までにBWRの経済性の確立を目指した技術開発を強力に、しかも体系的に推進することを狙いとした。技術的な壁をどのような代替方法で突破するかということの開発計画は、BWRの商品化、標準化、カタログ化に対して決定的な役割を果たした。
GE社はこの開発計画の成果をもって、原子力発電の市場に全く新しい提案を引っ提げて強力に進出していった。その新しい条件とは、標準的な仕様に対しての費用の固定化、引き渡し期日の厳守、そして有名になったターンキー方式であった。GE社の技術者たちはこのような条件を提示して、電力会社に原子力発電が有利なことを主張した。そしてそれが成功し、米国ばかりでなく、世界中で原子力発電ブームが巻き起こったのであった。
GE社が最初の原子力発電所を完成させたのは1960年6月のことで、ドレスデン原子力発電所18万kWであった。さらに大規模で、経済性も石炭火力に匹敵するといわれた原子力発電所の受注に成功したのは、オイスタークリーク発電所(51.5万kW)で、1963年のことであった。
<関連タイトル>
沸騰水型原子炉(BWR) (02-01-01-01)
WH社によるPWR原子力発電所の開発 (16-03-01-06)
沸騰水型炉(BWR)の着想と初期の開発 (16-03-01-07)
<参考文献>
(1)USAEC REPORTS, 1950-65