<本文>
1.家畜としてのミツバチ
ミツバチは高度に社会性を進化させた昆虫であるが、その種分化は極めて乏しい。セイヨウミツバチ(Western Honeybee:Apis mellifera)、トウヨウミツバチ(Eastern Honeybee:A. cerana)、オオミツバチ(Giant Honeybee:A. dorsata)それにヒメミツバチ(Little Honeybee:A. florea)の4種だけである(これらを5−7種に分類する学者もいる)。後2種は熱帯に生息し、人との関わり合いをあまり持たない。トウヨウミツバチは一部の地域での飼養を除き、ほとんどが野生である。セイヨウミツバチはヨーロッパ、アフリカに分布しているが、今日では養蜂種として世界中で広く飼養されている。この種には多くの系統が知られており、ブラジルの研究者が導入したアフリカ在来のミツバチが逃亡し、北アメリカまで分布を広げたことで近年問題となったアフリカナイズドミツバチ(攻撃性が強くKiller bee とも呼ばれている)もセイヨウミツバチの系統間の交雑種である。
明治に初めて我が国に導入されたセイヨウミツバチは、生産性が高く飼養に適した性質・行動を持つイタリアン系やカーニオライン系であった。今日においても、上記2系統の交雑種が我が国養蜂種の基本となっている。
セイヨウミツバチは、ヨーロッパでの長い飼養歴史の結果、極めて人に利用されやすい形質をもつ家畜となった。一般に養蜂種といえば本種を示すのが一般的である。近年、地域興しなどでニホンミツバチ(トウヨウミツバチの1系統)の飼養が試みられているが、生産性や管理上の点でセイヨウミツバチに劣るようである。これらの劣位は種間差より、豚と猪との比較で見られるような、家畜化の程度差によると考えられる。
2.利用する上でのミツバチの特性
ミツバチは高次真社会性昆虫と呼ばれ、女王自らが巣を創設することはない。1匹の女王を連れた1群の働きバチが巣を創設し(分封)、産卵を専業とする女王によりコロニーの増大が計られる。女王の寿命は3−5年で、その死後は娘が女王となって受け継がれ、巣が崩壊することはない。こういった生活環をもつため、飼養管理がなされ易く、家畜化されてきた。
養蜂業には、二つの産業的側面がある。一つは、蜂蜜、ロイヤルゼリー等の生産であり、もう一つは、作物への花粉媒介機能の利用である。前者においては残念ながら、他の畜産物以上に我が国における自給率の低下が著しく、芳しくはない。例えば、国内で消費される蜂蜜総量が約4万トンであるが、国内総生産量は3千5百トン程度で、実に90%以上を輸入に頼っている。国内での蜂蜜1kgの生産価格は1500円程度であるが、最大の輸入相手国である中国からの蜂蜜1kgは、110円(含関税)であり、ベトナムに至っては同84円である。
一方、後者(花粉媒介機能の利用)においては、大きな需要が起こっている。これまでの単作栽培の拡大や薬剤多用栽培のために、栽培地で必要な野生の花粉媒介性昆虫が少なくなってしまったこと、さらには、近年我が国および先進農業技術立国で施設栽培が増大していることも挙げられる。風も雨もない施設内では、実を着ける作物の授粉は人手(振動やホルモン処理)を必要とする。しかし、これまた残念なことに花粉媒介能力が極めて高いとされるミツバチでありながら、これらの需要に十分対応しているとはいえないのが現状である。その原因の1つとして、巨大なミツバチコロニーの持つ強い防御性(刺傷性)のため、農業者自身によるコロニーの維持・管理が難しいことが挙げられる。
3.ミツバチの育種
他の家畜同様、ミツバチにおいても有用な形質を持った生殖個体を選択し、望ましくない形質を持ったものは淘汰するといった手法により今日の系統(品種)が作られてきた。ミツバチコロニーには、通常1匹の女王と多数の働きバチ、それに繁殖にのみ携わるオスバチで成り立つ。女王と働きバチはともに2倍体の
染色体 を持ち、両者の違いは幼虫期の食物によって決まる。オスバチは、女王が産んだ不受精卵から単為生殖によって育ったもので半数体の染色体を持つ。オスバチでは遺伝子型と表現型(生物に実際に表れる形質)が一致するため、育種する上で便利な遺伝様式であるが、刺針のようにメスバチのみ有している機能については利用できない。なお、ミツバチには
性染色体 といったものはなく遺伝子によっても性が決定され、それらの遺伝子がホモ(同型)の状態になるとオスバチとなるが、これらは発育途中に働きバチによって除去され、実際には親になることはない。4.突然変異の利用
遺伝子構造が変化して異なる形質(性質や形)が発現することを突然変異という。突然変異は自然状態でも一定の頻度で起こるが、その変化の方向はそれ自身機械的であり、突然変異の大部分はその生物がこれまで永い年月培ってきた適応性を失わせる方向に作用する。
放射線 やある種の化学物質により人為的に誘発する突然変異においても、同様なことが言える。特に、一つの形質に関与する遺伝子が多いほどその傾向は強い。
例えば、ミツバチに突然変異を起こさせて、刺す針を強力にしたり、あるいは2本の針を具備させるなどといったことは、短時間で起こる人為的突然変異では達成不可能である。おそらく逆に、「刺す」システム自身が壊れてしまい、防御システムも働かなくなってしまうであろう。これは、ミツバチにとっては不都合なことかも知れないが、ミツバチを家畜として利用している人間にとっては有益なこととなる(
図1 )。
5.刺さないミツバチの刺針
多くの昆虫は産卵管を持っている。ミツバチの刺針は、そういった産卵管からさらに進化したもので、もはや産卵の機能を持たず、防御用専門である(
図2 )。
腹部の末端にある小室(sting chamber)に格納されている刺針(sting)は必要時に突き出す仕組みになっている。刺針自身は、1つの管を形成するように2種の針(1つのstyletと2つのlancets)で構成されており、3つの針はお互いにスライドするようになっている。それぞれの針の先端にはもどり針(barbs)があり、刺したら抜けにくいような形態となる。刺針の元の方は太く球状(bulb)となり、ここに注入すべき毒液が貯められる。その中にはlancetsに固定された各々2つの弁(valve)があり、交互にスライドするlancetsの動きにつれ弁が毒液を送る働きをする。すなわち、ミツバチでは、このlancetsの動きで刺針が挿入され、同時に毒液が注入されることとなる。これらの動きを司るのが刺針の元にある3種類の歯車(quadrate plat, oblong plate, triangular plate)とそれに関係する筋肉(muscle)である。
「刺さないミツバチ」では、刺針のstyletとlancetsがバラバラになり、互いにスライドすることができなくなり「刺す」機能を果たせなくなっている(
図3 )。同時に、毒液を注入するための弁も刺針から外れ毒液を送ることもできない(
図4 )。
6.刺さないミツバチを作る
ガンマ線を照射することにより、刺針システムの壊れた「刺さないミツバチ」が得られる。生殖個体である女王を含むコロニーに20〜50Gy(
グレイ )のガンマ線量を照射した場合(
図5 )、40のコロニー中、6コロニーで上記の「刺さないミツバチ」が、0.5〜1.0%の出現率で認められた。さらに、その「刺さない形質」が分封コロニー(孫)にまで現れた。これらのコロニーから得られた「刺さない形質」は、代を重ねて出現する、すなわち遺伝するが、形質の表現形式から見て、単一の遺伝子だけによる突然変異ではないと推察される。これらの遺伝資源を母体に、交配と選抜を繰り返せば「刺さないミツバチ」の系統が樹立されるものと期待される。
次に、親(女王)のステージではなく、発育途上の段階、すなわち、老熟幼虫から蛹へと変態する時期に30Gyのガンマ線量を照射すると、それらの個体のほとんどすべて(97%)が「刺さないミツバチ」となる(
図6 )。この手法により、永続的なものではないが、刺さない蜜蜂のコロニーが人工的に作られた(
図7 )。チャンバー(恒温湿、長日条件)内に蜜源植物を持ち込み、刺さないミツバチの飛翔性、訪花性等の行動を調査し、通常のミツバチとの差異は認められなかった。生産コストや照射施設の面を別とすれば、この「刺さないミツバチコロニー」の花粉媒介性昆虫としての実用性はあると考えられる。
女王に照射した場合と、発育途上の個体に照射した場合とで共に現れた「刺さないミツバチ」は外見上区別できないが、後者の形質は、発生上の単なる障害を示すものであるのかも知れない。しかし、もし、前者と同じく変異が生殖細胞にまで影響している、すなわち、遺伝性を持ったものであれば、後者の「刺さないミツバチ」を選抜育種した方が系統樹立への実験効率は高くなる。なお、後者の手法により、刺さない形質を持った女王も育成されている(
図8 )。
飼養者に刺傷またはその恐怖感を与えるミツバチは、有用でありながらも身近な家畜とは言いがたい。刺さないミツバチが利用可能となれば、農業者自身がミツバチの持つ花粉媒介機能の利用・管理を行えるようになり、さらには、一般個人が庭に巣箱を置き、蜂蜜の生産を楽しむこともできるようになる。こうして刺さないミツバチの飼養が広まれば、コロニーの供給者としてプロの養蜂家にも活躍する場が広まるであろう。
7.突然変異体の利用
突然変異体を野外に放飼する場合には慎重でなければならない。野外種との交流を通じての突然変異に関連する遺伝子の流出や、それ自体の生態系への撹乱などに配慮する必要がある。しかし、セイヨウミツバチの場合には、こういった懸念は、以下の理由で低いと考えられる。
◎外来種である本種は、日本の環境(天敵、病気、気象等)下では、定着することが難しく、野生コロニーはほとんどいない。したがって、野外種との遺伝子交流では問題がない。
◎ミツバチコロニーでは、1匹の女王と多数のオスバチだけが遺伝子を次世代に残すことができる。実労部隊である働きバチは遺伝子交流に関与しない。したがって、女王とオスバチを管理することにより遺伝子の流出は防げる。女王とオスバチは、働きバチに比べ体躯が格段に大きく、巣門のサイズを調節することにより管理できる。
<図/表>
図1 手の上の「刺さないミツバチ」
図2 ミツバチの刺針の構造
図3 通常のミツバチ(左)と「刺さないミツバチ」(右)の刺針
図4 「刺さないミツバチ」の刺針
図5 ガンマ線照射を受けるミツバチコロニー
図6 卵から蛹期の各個体にガンマ線処理をした場合の成虫羽化頻度
図7 「刺さないミツバチ」のコロニー
図8 「刺さない」形質を持った女王
<関連タイトル>
生物学における放射線利用 (08-01-04-04)
放射線育種の概要 (08-03-01-08)
<参考文献>
(1)J. M. Graham et al.:The Hive and the Honey Bee, Dadant & Sons, Inc., 1324pp(1992)
(2)農林水産省畜産局家畜生産課(編):養ほう関係参考資料(養ほう振興法に基づく養ほう業者の届出結果等)、61pp、1993年8月
(3)農林水産省技術会議事務局(編):原子力と農業、124pp、1968年3月
(4)農林水産省畜産試験場(編):平成7年度畜産・試験研究成績・計画概要集、1996年3月
(5)Beekeeping in the United States, U. S. Government Printing Office, 193pp(1980)
(6)天野和宏:刺さないミツバチの育種、Isotope News、4月号、6-8(1996)
(7)天野和宏:刺さないミツバチ、ちくさんナビ
(8)(社)畜産技術協会:国内関連情報、報告書、ガンマ線照射による「刺さないミツバチ」の作出
(9)(独)農業・生物系特定産業技術研究機構、畜産草地研究所、畜産研究成果情報「ガンマ線照射による刺さないミツバチの作出」