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<概要>
 米国の戦後の原子力開発体制の再編成は、簡単な問題ではなかった。1947年はじめに原子力委員会が発足しても、受け継ぐべき研究計画もない研究者の集団ばかりを引き取った形になっていた。それでも1949年のはじめには、材料試験炉高速増殖炉、海軍の加圧水型軽水炉という開発路線も定まり、現実にはそれらの原子炉をどこに設置するかという問題になっていた。早期に広大な土地を必要としたが、候補地は2カ所に絞られ、技術的な調査の結果を尊重して、アイダホ州アイダホ・フォールズに決まった。
<更新年月>
1998年05月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
 1947年のはじめ、設立されたばかりの米国原子力委員会(AEC)が最初に当面した問題は、どのような炉型の原子炉をどこが主体となって開発して行くかという問題であった。ウラン資源の見通しが悲観的だったことから、増殖炉が最優先と考えられていた。しかし、海軍は艦船用の動力炉を強力に推していたし、国立研究所の科学者達は、なによりもまず、原子炉のための原子炉といわれる材料試験炉の建設が重要だと主張していた。それ以外にも、重水炉やガス炉の構想もあって、調整は困難を極めた。
 問題はほかにもあった。戦時中のマンハッタン計画を支えた研究開発施設が戦後国立研究所として再出発したが、その役割分担をどうするかという問題であった。特にアルゴンヌ(イリノイ州)とオークリッジ(テネシー州)の両研究所の調整が大きな問題であった。そして将来の炉型をめぐる問題と絡んで簡単には解決しそうもなかった。
 それでも1949年のはじめまでには、原子力委員会は原子炉開発計画の概要を定め、その原子炉の設置場所を選定する段階になった。早く場所を決めなければ、建設が遅れることは必至であったし、その遅れがアメリカの原子力の基盤を揺るがすかもしれなかった。そして従来の国立研究所に個別に原子炉を設置するのではなく、新たに広大な敷地を求めて、そこを総合的な原子炉開発のための試験場とする構想が打ち出された。
 事前調査の結果、アイダホ州とモンタナ州に候補地が見つかった。原子力委員会はデトロイト市のエンジニアリング会社にその地域の地形、地質、人口、気候、水資源などについての評価を依頼した。1949年2月までには同社はアイダホ州が勝れているという第1次報告書を提出した。それに基づいて原子力委員会はすみやかに行動を起こした。アイダホ州の候補地の半分を占める海軍の保有地が割愛されることを勘定に入れて、原子力委員会は2月18日にこの地域を実験場とすることを内定した。
 海軍が保有地の選択に難色を示したこと、モンタナ州の議会が巻き返しに出たことが問題になったが、原子力委員会は先手をうって、3月1日にアイダホ州に決め、そして4月4日にはアイダホ州の事務所の所長の人事まで公表してしまった。その後も多少の障害はあったが、原子力委員会はアイダホ州の砂漠に400,000エーカーの土地を選定し、獲得することができたのであった。
 この土地の選定と入手が比較的短期に決着がついたことは、アメリカのその後の原子炉開発に大きな影響をもたらしたと言えよう。もしこの土地選定問題がこじれて、多くの月日を費やすことになっていたら、アメリカの原子炉開発計画はもっとゆがんだ形になっていたかもしれない。
 このようにして決定したアイダホ・フォールズに近いこの地は、アメリカでただ一つの国立原子炉試験場(NRTS:National Reactor Testing Station)として、材料試験炉、高速増殖炉、加圧水型軽水炉、沸騰水型軽水炉、など多くの炉型の誕生にかかわることとなった。
<関連タイトル>
アメリカの原子力発電開発 (14-04-01-02)
米国原子力委員会の成立 (16-03-01-01)
マンハッタン計画 (16-03-01-09)

<参考文献>
(1)USAEC REPORTS, 1948-50
(2)A HISTORY OF USAEC, VOL.II, WASH1215
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