<本文>
1.原子力法案の成立
アメリカでは、対日戦争が終わって原子力に対する新たな関心は、わずかながらその存在を国民に知られるようになった原子力研究施設や、原爆が投下されて民間人に多くの死傷者を出した広島や長崎から、ワシントンへと移っていった。そこでは、原子力時代における覇者としてのアメリカの国策が決定されることになるはずであった。
政治家たちは、原子力に対する恐怖と希望の両側から、かつては自然界に閉じ込められていた原子力を、今後は法律の枠の中に閉じ込めようとする困難な試みに奔走していた。同時にそれまで原爆を開発、製造するためのみに組織化されていたアメリカの原子力開発計画も、必然的に厳しい転機を迎えることとなった。政府資金は削減され、研究開発に対する確固たる目標もなく、多くの科学者や技術者も、元の大学や企業へと戻っていった。
1945年10月3日、トルーマン大統領は議会に対して原子力に関する教書を送った。この教書の内容は、きわめて抽象的であったが、「現在の研究及び産業界の体制に支障のない範囲で、
核燃料にかかわる原料と製造工程の国家管理を提案し」、「議会にその具体策の立案を要請した」と述べている。原子力を新しい時代の切り札としながらも、その平和的利用の必要性を示唆したにとどまり、一応その方向への努力を求めたものでしかなかった。
しかし、大統領が議会に対しての教書を提出した直後に、陸軍省によって起案された原子力管理に関する法案が上院ではジョンソン議員、下院ではメイ議員によって提出された。
この法案では、大統領が任命し、現役の陸海軍の軍人を含みうる9人のメンバーからなる委員会が、絶対的な権限を持つことを想定していた。そして、これらの法案の成立を期して強引な手続きが進められようとしていた。
これが「メイ・ジョンソン法案」としてその内容が知れ渡ると、原子力の開発研究に従事してきた科学者は、いっせいに反対を表明して立ち上がった。活発な論争が行われるにつれて、メイ・ジョンソン法案は原子力の軍部による管理のシンボルのように浮かび上がってしまった。
科学者たちの間では、反対運動のためのグループがいくつも結成され、積極的に連絡を取り合い、11月にはアメリカ原子力科学者連盟が誕生することになった。
2.原子力委員長の任命
このような科学者たちの反対運動を背景に、上院議員のブライアン・マクマホンは10月29日、将来の原子力に関する立法の調査を目的とした、特別委員会を設置させることに成功した。
そして翌年の4月までの間に、公開・非公開の会合を重ねて、アメリカの原子力計画に責任ある地位で参加した多くの人々の証言を集めた。
上院のマクマホン委員会は、メイ・ジョンソン法案にかわる、新しい法案の起草にかかり、12月20日には議会提出となった。その間科学者連盟は同委員会と接触を続け、この法案は基本的には同連盟の支持を受けることになった。それによって、メイ・ジョンソン法案が軍部による管理のシンボルとみなされたように、今度は「マクマホン法案」が民間による管理のシンボルとみなされるようになったのであった。
この新法案はメイ・ジョンソン法案にもられたような強力な権限を原子力委員会(
AEC)に付してはいなかったし、機密保持に関する処罰はスパイ法を超えないものとなっていた。原子力委員会は有給の委員で構成され、同時に核分裂物質の唯一の製造者であり、配布を行う当事者となっていた。つまり原子力開発計画を軍部の管理ではなく、あくまでも文民統制(シビリアン・コントロール)の下におくことをねらいとしていた。
トルーマン大統領は2月に、マクマホン法案の骨子に賛意を表明したため、この法案の優勢は決定的となり、ついには1946年7月末、提案者の名を冠した「マクマホン法」は議会を通過し、8月1日の大統領の署名を得て、発効の運びとなった。
9月20日、当時TVA(テネシー峡谷開発公社)の総裁であったデイビッド・E・リリエンソールは大統領に呼ばれて、原子力委員長に就任することについて打診を受けた。彼としては永年取り組んできたTVAの仕事を、彼のあとを継いで前向きに遂行できる人物が見つかることを条件に、原子力委員長の任を引き受けることを回答した。
11月1日午後5時15分、彼は原子力委員長としての宣誓を行った。委員長を含む5人からなる委員会は、大統領府の一角を占める原子力行政の最高執行機関であった。そして大統領がアメリカの原子力計画を、生まれたばかりの原子力委員会へ委譲する命令書に署名をしたのは、その年の12月31日の午後のことであった。
原子力委員会の委員長としてのリリエンソールの名は、TVA時代における実務者としてのすぐれた手腕と、以前に主張した原子力の国際管理案とによってよく知られていた。一方それ故に、軍管理とアメリカの核独占を主張するグループと結びついた上院の保守派の反対にあうことになった。上院の聴聞会での3カ月にわたる個人攻撃に耐えなければならなかったのである。この苦しい試練を乗り越えて、彼は委員長任命についての上院の承認を勝ち取った。
<関連タイトル>
アメリカの原子力開発体制 (14-04-01-03)
国際原子力機関の成立 (16-03-01-03)
<参考文献>
(1)USAEC REPORTS, 1950-65
(2)A HISTORY OF USAEC, VOL.II, WASH1215