<大項目> 海外情勢
<中項目> 旧ソ連・東欧各国
<小項目> ロシア
<タイトル>
ウラルの核惨事 (14-06-01-11)

<概要>
 1957年9月にソ連の南ウラルの核兵器工場で化学爆発があったことを、1989年6月16日にソ連当局(当時)は公式に認め、その原因と影響を詳細にまとめた報告書を同年7月国際原子力機関(IAEA)に提出した。これによると、幅9キロ、長さ105キロにわたる範囲が放射能に汚染され、当時1万人以上が避難せざるを得なくなったという。この事故については西側諸国でも以前から指摘され続けていたが、32年ぶりにようやく事実が公になったことになる。
<更新年月>
1998年05月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
[爆発事故の経緯]
 1989年にソ連(当時)が国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書によると、事故はチェリャビンスク北方のカスリ市近郊にあった軍事用原子力施設で発生した。冷却システムの故障により、高レベル放射性廃棄物を貯蔵していたタンクが化学爆発を起こした。このため、200万キュリーの放射性核種が幅8〜9km、長さ105kmにわたって拡散した。放射性核種はチェリャビンスク州、スベルドロフスク州、チュメニ州の一部にも拡散した。この「ウラルの核惨事」に関連する地図を 図1 に示す。
 事故発生後、約1万人が緊急避難した。放射能の総放出量は200万キュリーで、チェルノブイル原発事故の放出量5千万キュリーより小規模で死者はなかった。しかし、汚染した土壌については除染作業が進められるとともに、農作物および食料の摂取規制が実施された。チェリャビンスク州の農業用地の除染作業は1978年にはほぼ完了し、影響のあった5万9000ヘクタールのうち、4万ヘクタールで農耕作業が再開されている。残りの部分は「保有地」に指定された。この放射能を取り除くために、1989年現在の費用に換算して2億ルーブルが費やされたとされる。

放射性物質のたれ流しによる汚染]
 爆発を起こした放射性廃棄物貯蔵施設を造る以前に、工場敷地内のカラチャイ湖に放射性廃棄物をたれ流していた事実も明らかになっている。この放射能の放出量は1億2千万キュリーに達するといわれている。1967年には、冬に雪が降らなかったせいで春から夏にかけてこの湖が干上がり、たれ流されて湖底に沈澱していたストロンチウムなどの放射性物質が乾燥して周辺に飛び散った。このために1990年現在、湖は埋め立てられているが、この作業のために、3〜4年の期間と6千万ルーブルの資金が必要とされている。

[放射線の影響]
 ソ連当局は汚染対策と住民の被ばく管理のため、1958年に実験研究所を設置した。その後毎年続けている被ばく者の健康診断の結果では、当初白血球数が減少した人がいたものの、白血病やガンの発生率の増加は認められないとしている。動植物の被害については当初は常緑樹の枝枯れがひどく、芽を出していた草やかん木も枯れたが、数年後にはほとんど回復したという。ただ、汚染地域内の湖の底にはストロンチウム90が沈澱したままになっており、底層のエサを食べるコイなどに突然変異が生じているという。

[日本人記者団への公開]
 1989年9月、ソ連当局は一連の事故による汚染地域を外国人としては初めて日本人記者団に公開した。この汚染地域は特別禁猟区となっている場所で、名前のない町であった核兵器生産のキシュチム工業団地の一角でもある。禁猟区の入口には遮断機が下り、制服警官が立っているが、立ち入り禁止と毒虫の注意書きが掲示されているだけで、核事故の汚染地域とは分からないようになっていた。案内の科学者は記者団に対して、自然の回復は早いことを強調したが、現在もこの地域の放射線量は自然界の放射線量の5倍以上となっており、記者団は32年前の事故の痕跡をはっきり確認している。
 1991年1月末には、日本人の写真家が外国人で初めて爆発現場の撮影に成功した。爆発の原因となったタンクには土盛りがされ、このなかに厚さ2メートルのコンクリート内部壁が造られていた。これによって放射能を防ぐ形となっていたが、土盛りの上ではかなりの放射能が検出されたという。

[ウラルの核惨事]
 この事故については、英国に亡命した生物学者のジョレス・メドベージェフ氏が1979年に発表した著作「ウラルの核惨事」で西側諸国に初めて伝えられた。このなかで、事故の結果、放射線後遺症で数百人の死者が出たとされ、事故の原因としては「経費節減を目的に放射性核廃棄物を1カ所に集中して埋めたため、核反応で加熱された廃棄物が突然爆発を起こした」と説明している。

[南ウラル地方の原子力発電所計画]
 ソ連当局の発表としては、ニキペロフ・ソ連中型機械製作省第一次官が1989年6月、チェリャビンスクで行なわれた原発建設に関する討論会の席上で事故の概要を説明している。ソ連国営タス通信は「この事故が国防産業施設で起こっていたため、これまで語られることはなかった」と、ソ連当局が隠し続けていたことを認めている。この公表は、ゴルバチョフの推進するペレストロイカ(改革),グラスノスチ(情報公開)の政策にも関連している。
 1989年当時、この南ウラル地方に原子力発電所の計画が進められていたが、ここでもグラスノスチ政策の一環として、発電所の建設是非をめぐって討論が行なわれた。この過程で、32年間も隠されてきた核事故の端緒が明るみに出たのである。またチェリャビンスクでは、専門委員会が原子力発電所計画の安全性などあらゆる面から検討している。
<図/表>
図1 ソ連「ウラルの核惨事」関連地図

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<関連タイトル>
ロシア連邦の再処理施設 (04-07-03-18)
旧ソ連における南ウラル核兵器工場の放射線事故(キシュテム事故など) (09-03-02-07)
ロシアの原子力政策 (14-06-01-01)
ロシアの核燃料サイクル (14-06-01-05)

<参考文献>
(1) 朝日新聞夕刊1989.6.17
(2) 毎日新聞夕刊1989.9.22
(3) 原子力資料 NO.225 1989.10 日本原子力産業会議
(4) 読売新聞朝刊1991.2.18
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