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人々の生活や活動の中には様々なリスクが潜在している。いつ命や財産の危険に出会うかを予め知ることは、困難な場合が多いが、それでも人はリスクをできれば避けたいので、選択が可能な場合には、その害と利益の程度を考えて自然に選択してしまっている。遊園地で乗物に乗らなければ、遊具の事故に出会うことはないが、そのスリルの楽しさを求めて乗る人は多い。肺ガンのリスクは理解していても、たばこの習慣から抜けない選択をする人もいる。株式投資は損失のリスクがあるが、うまくすれば利益が出ると投資の選択をするから資本主義経済が成り立っている。これらは選択の自発性が多いリスクの例であるが、近所に化学工場が建設された、通勤には特定の電車しかない、といったリスクは個人にほとんど自発的な選択権がない。
このように、人々はある施設の受容といった、リスクの選択に自発性の大小がある場合、さらに代替手段がある場合、その両手段をどう理解しているかによって、幅広い対応を示す。
原子力施設 にはある種の危険の可能性(リスク)があることを、人々は大なり小なり知っている。しかし、その知識の程度は一定でなく、チェルノブイリの事故の状況についてよく知る人、
放射能 は怖いという記事を多く目にしてそう信じている人、原子力安全について納得できる説明を聞いたり、資料を読んだ人、読まない人という風に予備知識の程度に差がある場合、原子力施設の建設について同じ話をしても、リスクの受け止め方(リスク認識)は様々になる。(文献1)
1. 社会不安と信用
従来、発電事業者や行政が行っていた説明会は、施設がいかに安全に設計されているかを技術的に、あるいは情緒的に説得しようとすることが多かったし、広報誌や展示館は普通そのような安全強調型に構成されていた。しかし、近年に原子力界で多くのトラブルや事故、それに伴う不祥事を招くに至って、従来の説明は不信を買い、いわゆる安全神話は崩れてしまっている情況にある。原子力に限らず、牛乳の細菌汚染、医療事故、飛行機や電車の大事故などが思いも寄らない(想定外の)情況で生じるために、科学技術に基づく施設一般の安全性に人々は不安を感じて暮らさなければならなくなっている。過去の説明に反する情況で科学者や行政、ましてや施設運営の当事者が、
安全設計 の建前をいかに強調して説明をしてももはや信用されなくなったことが、社会不安を招いている。信用の破壊は少ない事例からでも生じ、その修復は多くの安全実績の積み重ねなくしては、なされないのである。
2. リスクコミュニケーションとしての対話と問題点
人間の造物たる、科学技術の施設には元もと絶対安全というものはなく、ある割合で故障などから事故に至る確率を含んでいることを説明しなければならない。不都合だからといって説明の外に置いてしまうと、事故が起きたときに嘘を言っていたことになって信用が崩れるのであるから、事故のリスクについては利便とともに最初から人々に説明した上で選択してもらわなければならない。公衆にはそれを聞く権利と理解する知恵はあるとの考えに基づいて、リスクについても伝達の機会を設けるのが、リスクコミュニケーションと呼ばれる政策手法である。リスク対話と呼ばれることもあるが、公衆一般のほかに多くの立場の関係者がある(
図1 )。通常、施設のもたらしうるリスクについて科学的説明をするのは、科学技術者とされている。それはリスク評価の手法とデータ(情報)を有しており、施設が目指すべき安全管理目標などを数量的に提示できる立場だからである。それに対して社会科学者(心理学者等)は社会生活上の意味などにコメントしたり、客観的質問や解説をする立場である。公衆と利害関係者(ステークホルダーと呼ばれる)は、疑問点(懸念)を率直に述べ合うことが保証されている。リスク発生体の直接責任者である企業や行政は答弁の義務を負う。このリスク対話の進行を務めるコーディネータは、利害に中立的立場の学者などが選任され、議論の進む方向に合わせてまとめを行うことが期待される。
対話の結果、全関係者から根本的な疑問が解消されれば、対話は成功である。公衆にはその施設に関する新たな段階のリスク認識が得られる。自ら選択した利害に満足するなら社会不安はなくなり、公衆の「安心」が得られた結果として、「信認」に至ることが期待される。しかし、アメリカにおける実践の結果、ライス(文献2)は次のように指摘している。知識の伝達は公衆を教育しようという意図を持って行ったときには、公衆から拒否を受ける(筆者注:リスクコミュニケーションという語自体がその意図を感じさせる恐れがあるので、対話の呼びかけに使うべきでない)。そして、リスクコミュニケーションには3つのフェーズがある。第1はある技術のリスクは他の技術のリスクより小さいことを納得させようとすることで、公衆はそのような数値尺度での抽象化を望まない。第2は日常の飲酒、喫煙といったリスクと比較し、ある技術のリスクは取るに足らないと説得することで、多くの人は現実のリスク管理の適切さに疑問を感じ、一方的な意図に不信を示す。第3は公衆とリスク管理実施者が双方で社会的学習プロセスに参加することによって、懸念を解消し、願いに合うようリスク管理の慣行を補正することにより、相互の信用を築くことができる。
すなわち共に考える(共考)プロセスの中で学んだ結果として、選択する技術とその管理方法について納得し、不信が払拭されれば、施設のリスク受容の自発性が高まり、リスク対話は目的が果たせたことになる。
3. リスク対話を成立させる要件
リスク対話においては、科学的事実や政策条件の説明の当事者が公衆から信用されていることが重要で、十分な信用が得られていない情況では、技術に不信を示すグループにとっては、伝達されたリスクを誇張して宣伝目的に利用することは容易であり、公衆が誰の言い分を信じるかの分かれ目が危ういものとなる。
好ましい進展を示さなかった事例としてルイス(文献3)は
高レベル放射性廃棄物 の処分の問題を報じている。議会証言でも報道においても、このような未知性の長期的判断を含むリスクは常に誇張され、我々の能力を遙かに超えたリスクであると説明されてきた結果、住民はこの施設の建設問題を否決した。コミュニケーションの目標は、ただ科学的事実を専門的に詳しく述べることで一方向的に理解させることではなく、平易で具体的な事実を示す双方向的なやりとりを通じて公衆の信用を獲得しつつ、懸念の解決に当たることである。
4. 原子力のリスクがどう理解されるか
原子力のリスクは他の科学技術と比べても理解が容易ではない。
原子力発電所 の場合、最大の事故として炉心損傷事故があるが、この結果はチェルノブイリの事故で示されたように悲惨なものであり、長期に渡って住民に甲状腺ガン等の発生リスクを与え続ける。そのことは世界の人々にある程度知られており、人々の原子力恐怖を形成する要素でもある。しかし、このような事故は確たる安全管理が行われていれば、極度に低い確率でしか起きないことも技術的事実である。旧ソ連ではそれが行われていなかったことが西側の調査で明らかにされているのだが、そのことを公衆に分かるように伝えるのは困難である。
原子力施設からの小さな放射能漏れのようなトラブル事象は、このような大事故に比べれば、相対的に大きな確率で生じうるが、リスクは事故の発生確率と影響度の積であるという技術的定義で比べれば、リスクはそれらの積が大きい方が大きい。従って政策的にはリスクの大きい事象の回避に資金を投じて、全体のリスクを低減させるのが正しいが、公衆のリスク感は結果のより大きな事故を重大視する傾向になることが知られており、それを考慮したリスク低減策が必要になる。
現在の原子力発電所の炉心損傷事故の確率は1機1年当たり約1〜8×10−7乗と評価されていたが、
アクシデントマネージメント と呼ぶ低減策を導入後に、さらに概ね2分の1から数十分の1に低減された(炉型によって異なる)と計算されている。このような低い数値の現実的意味を、一般の人に他のリスクによる災害の確率と比較して低いと理解してもらうという説明は容易ではない。技術の専門家にとっては、リスクの比較を数量的に行うのが合理的であっても、日常の生活実感でなじみの薄い確率は、公衆に対して直接用いるのは有効に働かない。なぜなら公衆のリスク認識は確率的なものでなく、結果の恐ろしいもの、不確実や未知なものなどをより大きなリスクと感じるからである。
このような事情を考えるなら原子力のリスクコミュニケーションには、技術的・数値的に説明すること以外の明快さの工夫が必要であることは言うまでもない。それには、数値的比較に依存しないリスク選択のために、原子力を拡大しないで化石燃料を使い続けた場合の結果を選択肢の中で明快に提示することが必要である。すなわち、
地球温暖化 の気象災害リスクや、化石燃料資源欠乏のもたらす世界的不安定などの予測は、定量的な結果の振れ幅はあろうが、定性的には理解されうることである。この面の研究はまだ整ったと言えず、リスクコミュニケーションの実践において十分な資料を提示できることが望まれる。
ここで解説した集会形式のリスクコミュニケーションをもっと広げるなら、日常の広報活動やインターネットによるコミュニケーションにも、リスクをも公正に伝えると言った姿勢が企業にも求められていることを知って実践することが必要である。その実践が、より有効な広義のリスクコミュニケーションを形成することになり、その企業が公衆・国民の求める情報の提供主体として信用を獲得できる要件ともなろう。
<図/表>
図1 リスク対話を成立させる諸要素
<関連タイトル>
東海村におけるリスクコミュニケーション活動 (10-06-01-14)
<参考文献>
(1)傍島眞、「原子力は何が問題か−人々が選択するエネルギーと環境−」、ERC出版(1999)
(2)Leiss, W., “Three phases in risk communication practices” Annals of the American Academy of Political and Social Science (1985?94)
(3)ルイス、H.W.,「科学技術のリスク」(宮永一郎訳)、昭和堂(1997)