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<概要>
 オーストリアでは、石油への依存を減らすために1970年代初めから原子力発電所の建設計画が進められた。同国初の原子力発電所であるツベンテンドルフ原子力発電所(BWR、72.4万kW)の建設工事は1972年に始り、1977年秋に建設が完了した。しかし、完成直前頃から起こった反対運動のため、同原子力発電所の運転開始をめぐって国民投票が行われた。その結果、原子力禁止法が成立し、同原子力発電所は運転に入らないまま、廃止されることになった。
<更新年月>
1999年03月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.ツベンテンドルフ原子力発電所の建設経緯
 オーストリアは、その豊富な水資源が主要なエネルギー資源になっている。可能水力資源のほとんどがすでに開発されており、これまでに未開発の地点は自然の景観に恵まれているなどの理由により、開発が行われなかったところである。これらの地域での開発に対しては反対も強く、新規開発が難しくなっている。また、石油、石炭、天然ガスの埋蔵量は少なく、それらの輸入依存度が増大する傾向にあり、そのための貿易赤字が問題になっていた。そのような状況で、エネルギーの輸入依存度を減らすため原子力発電所の計画が進められた。 図1 に電源別発電電力量を示す。
 ツベンテンドルフ原子力発電所(BWR、72.4万kW)は、ウィーン北西約40キロメートルのニーダー・エスターライヒ州ツベンテンドルフに位置する。1969年当時に二大政党である社会党と国民党の合意によって、関連会社と州会社7社の間でツルナーフェルト共同発電会社(GKT:Gemeinschaftliche Kraftwerk-gesell Schaft Tullnerfeld)が設立された。GKTは1971年、原子力発電所の建設を西ドイツのクラフトベルク・ユニオン(KWU Siemens)社に発注、翌1972年に着工し、1977年秋には建設を完了し、1978年より操業を開始する予定であった。
2.原子力に対する国民投票
 しかし、完成直前になって、放射性廃棄物の処理や安全性など原子力発電に対する懸念が、議会や国民の間に高まり、1978年11月、原子力発電の是非をめぐって国民投票が行なわれた。
 国民投票が行なわれた背景には、政府与党である社会党の政治的な配慮があった。オーストリア議会は、与党の社会党と野党である国民党の比率はほぼ同数という不安定な状態にあった。原子力推進の社会党は、原子力の運転を強行して議席を失い、政権の座から転落することを恐れた。そのため、国民投票によって原子力発電の将来を決定する方が無難であると判断した。
 この国民投票は、オーストリア憲法43条の「法律案は必要に応じ国民投票に付すことができる」との規定により実施されたもので、今回、この規定を受けた法律案は、
 1.原子力発電所の操業開始には連邦法による許可を必要とする
 2.ツベンテンドルフ原子力発電所の操業開始を許可する
を骨子とする「原子力利用法」と称するものであった。
 この法案は、社会党政府が提案し、1978年7月に下院を通過、上院も異議なしとしていた。
 投票は1978年11月5日に行われた。その結果、ツベンテンドルフ原子力発電所の運転開始は、賛成49.54%、反対50.46%の全くの僅差で否決された。国民投票の結果を 表1 に示す。また、州別の投票結果はザルツブルグ州など西部の4州は反対、発電所立地点に近いウィーン特別州など東部の5州は賛成で、原子力発電所に係わりの深い地域で賛成が上回っている。
 国民投票の結果を受け、国民議会は1978年12月に全会一致で「原子力禁止法」を可決し、同原子力発電所への運転認可の発給が禁止されるとともに、他の原子力発電プロジェクトも破棄された。
3.原子力発電所の運転を求める動き
 ツベンテンドルフ原子力発電所の運転開始が禁止された後、経済情勢の悪化、失業率の増大と相まって、原子力発電所を容認する声が高まり、1980年11月、原子力禁止法の撤廃を求める国民署名が実施された。これによって、40万人を超える署名が集まり、国民議会は1985年3月21日、同発電所の運転再開を求める提案の動議を採択した。しかし、必要な3分の2の賛成票を集めることができなかったため、この提案は否決された。
 このような運転再開への動きも、1986年4月のチェルノブイリ事故により完全に断たれてしまい、同発電所の運転再開への道は閉ざされてしまった。
4.ツベンテンドルフ原子力発電所の転用
 原子力発電所の運転は中止したものの、運転会社のGKTは、この原子力施設と装置の再認可またはプラントの代案使用が決まれば、設備を利用できることから、設備を維持していた。
 しかし、チェルノブイリ事故の影響を受けて、オーストリア政府は1986年9月23日、GKTに速やかに解体するよう指示した。これを受け、米国のベクテル社が1987年7月に同発電所の処分方策を検討するとともに撤去作業を開始した。核燃料と幾つかの制御装置は売却された。最初、ツベンテンドルフ原子力発電所を石炭、石油、ガス燃料火力に転換することについて調査が行われたが、オーストリアでは厳しい環境法と規制があることから、1990年12月現在では、複合ガス火力発電所への転換が決定された。発電所建設は140億オーストリアシリング(約3,800億円)であったが、、転換にはさらに50億オーストリアシリング(約1,000億円)が必要である。
 オーストラリアは”NO-Nuclear”の中核的外交政策を推進している。
<図/表>
表1 原子力利用法に関するオーストリアの国民投票結果
表1  原子力利用法に関するオーストリアの国民投票結果
図1 オーストリアにおける電源別発電電力量の推移
図1  オーストリアにおける電源別発電電力量の推移

<関連タイトル>
オーストリアのエネルギー・電力需給と原子力 (14-05-12-02)

<参考文献>
(1) (社)海外電力調査会:海外諸国の電気事業 第2編1995年(1995年3月)、オーストリア、p.6-21
(2) (社)日本原子力産業会議:原子力資料No.107(1979)、原子力発電開発をめぐるオーストリアの国民投票について、p.47-49
(3) (社)日本原子力産業会議:原子力年鑑1989、オーストリア、p.268-269
(4) (社)日本原子力産業会議:原子力年鑑1990、オーストリア、p.270-271
(5) (社)日本原子力産業会議:原子力年鑑1991、オーストリア、p.275
(6) FORATOM(European Atomic Forum):1998 Almanac、Austria、p.19
(7) LAKA Foundationホームページ
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