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<概要>
 科学者、技術者にとって必要な技術者倫理は工学のあるべき姿を問う工学倫理と表裏一体を為すものであるが、その実践者の一人として、代表的な日本の化学工業の先駆者である野口遵が挙げられる。技術者倫理の必要性は次ぎの3点に集約される。第1に、技術の健全な発展のためであり、それには技術者が正直で誠実に同じ土俵で意思疎通し、善悪を判断し、実行することである。第2に人類の幸福のためである。技術者は大きい力を持っており、「公衆の安全、健康及び福利を最優先する」の原則に基づいて行動すべきである。第3は技術者自身の自己防衛のためである。自らの倫理的な判断基準、行動原則を持つことによって、技術者が遭遇するいろいろな場面で事故、法違反、及び不祥事等に巻き込まれない可能性を高めることができる。
 また、技術者倫理を学ぶ方法の一つとして平素から、倫理問題を含むと推定される日常の事故や不祥事等を新聞等から収集し、自分なりに推理を交え検討するという、いわゆる事例研究が極めて重要である。最後に体験事例を紹介する。
<更新年月>
2005年07月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.はじめに
 最近技術に関わる事故や不祥事が起こるたびに技術者の倫理欠如が叫ばれることが多い。技術者倫理を実践した事業家は戦前にも多く見られるが、その実践者の一人として、代表的な日本の化学工業の先駆者であり旭化成(株)の創始者である野口遵(したがう)が挙げられる。野口遵は大正から明治にかけ『凡そ工業と云うものは、大衆の社会生活に必要なものでなければならい。』の考えに基づき、宮崎県延岡でカザレ法アンモニア合成の工業化、朝鮮・虚川紅等における水力電源の開発、それを基にした朝鮮窒素肥料(株)興南工場での一大化学コンビナートの建設等の業績、更には晩年の私財のほとんどを社会に寄付等の行為から野口遵を高い倫理感を持ちあわせた技術者でかつ経営者であったと見ることができる。なお、更に遡れば日本には武士道があり、技術者倫理と合い通じるところがある。更に自然科学(物理化学)に傾倒し、人文科学を学んだ福沢諭吉も技術者倫理の良き理解者、実践者と言えるであろう。

2.技術者倫理とは何か
 人は生まれながら、皆その時代、国や境遇に応じた倫理、すなわち「人の倫理」を身につけることが要求されているのは自明の理である。人が成長して技術を学び、社会人となって技術業に就くと、「1人の人間としての倫理」に付け加えて「社会人としての倫理」、「技術者の倫理」、「組織人としての倫理」、「企業倫理」、更には「管理職の倫理」、「経営者の倫理」等を重複して要求されるようになる。
 ”技術者の倫理”、すなわち”技術者倫理”が倫理体系上確固たる位置付けや定義があるわけではないが、ここでは、『技術者倫理とは、技術者個人個人が個別の技術分野をまたがって、例えば工学分野全般および医療の一部の分野などにおいて研究、開発、実施,利用などに係わる技術的事項の善悪を見分け実行するための規範である。』と定義する。”技術者倫理”の基本にあるものは、「公衆の安全,健康及び福利を最優先すること」である。ここで「公衆」とは、不特定多数の市民はもとより、家族、地域社会の住民、仲間の従業員を含み、「福利」は安心、幸福に近い意味である。
 また、類似の用語に”工学倫理”があるが、”技術者倫理”とほとんど同じ意味で用いられることが多い。表裏一体を為すものとも言える。しかし、少し別の切口(図1)で見れば、”技術者倫理”が「技術者一人一人が関与する技術的事項」を主として考察するのに対し、”工学倫理”はどちらかと言うと「技術のあり方」を主たる研究対象としている点で違いがあるように思われる。
 なお、「技術者/非技術者、専門分野/非専門分野、関与部分/非関与部分、倫理/法等の境界線があいまいで技術者倫理は分かりにくい」という戸惑いが一部にあるが、”技術者倫理”も”倫理”と同様に一般常識であり、境界領域は常識に沿ってケースバイケースで線引きしていけばよい。なお法律は倫理に含まれる。また倫理問題に対しては、法律や組織内の規程の適用ができないケースが多く、いかにして事の本質を洞察し、より良い解決策を見出すかが重要である。

3.技術者倫理を学ぶことは何故必要か
 技術者倫理を学ぶ必要性についてすでに多くの説明があるので、ここでは次の3点について述べることにする。
3.1 技術の健全な発展
 技術の進歩は人類社会に大きい恩恵をもたらすが、その一方で戦争やテロまたは不可逆的な環境破壊など、しばしば暴走したり、悪用されたりもする。そのマイナス面も計り知れないほど大きい。それを防ぐために製造禁止や使用制限などの法的・自主的規制が設けられたりもするが、技術の急速な進歩に追随できなかったり、有効な抑制対策となっていない場合が多く見られる。さらに技術の広がりや技術の連環の問題もある。身近な問題として、自分の担当分野は理解できても、それ以外の関連分野の理解が不十分になって、技術の断絶や不連続が起こることがある。また現行の最良技術を以ってしても解明できない部分は、いわゆるブラックボックスになって手付かずになる恐れがあるが、それらへの対応も考えておかないと大変大きなリスクにもなり得る。
 技術の健全な発展に貢献する手段の一つとしては、技術的事項に関して技術者が同じ土俵(正直で誠実であること等)に立って意思疎通を行い、技術者各人が善悪を判断し実行することが重要と考えられる。
3.2 人類の幸福
 技術者は、意識するしないにかかわらず大きな力を持っている。それが、不注意、誘惑など人間としての弱みのために、手抜きをしたりミスを起こしたりすると大きなマイナス影響を及ぼす。また非意図的に技術の悪用や操作をされたりすることもある。技術者倫理の原則に「公衆の安全、健康及び福利を最優先する」とあるように、事故を防ぎ、迷惑をかけず、技術が感謝される世の中にしていくには技術者の不断の努力が不可欠である。
3.3 自己防衛
 自らの倫理的な判断基準、行動原則を持つことで、技術者は自分の身を守ることにも役立つ。技術者が事故や法違反、収賄、利益の相反等の不祥事に巻きこまれず、また技術を悪用する被害者・加害者にならないための最後の砦、決め手となるのは技術者倫理ではないだろうか。また日常業務では熟慮断行も勿論大事であるが「とっさの判断」も同じくらい重要である。これは平素の事例研究により養われる。

4.事例研究
 表1は化学分野等で多くの人が経験しそうな初歩的な事故の一例である。ここで特に注意願いたいことは対応の仕方ある。技術者の個人的ポテンシャルや立場の違いで対応が様々である。しかし、その場面場面で最も適切な対応となると、平素研究しておかないと容易には実行できない。
 技術者倫理を学ぶ上で、事例研究は非常に有効で重要である。情報源は新聞、TVなど身近にも色々あるが、例えば事故情報であれば発生日で整理し、関連情報を追加して集めていくのがよい。その事故について、得られた情報を基に事故原因を推測し、どのような倫理的な問題点があるのかを考察するのであるが、それは推理小説の展開にも似ている。大切なことは、関連情報が追加されるごとに推測を修正し、「自分が担当の技術者であったらどうするか」、「自分が管理者であったらどうするか」を考えていくことである。さらに事例を自ら創作することが推奨される。その際、固有名詞などを明示しにくい場合は伏字などでよく、また概念的な事例にあってはなるべく推測しやすいように工夫することが望ましい。
 ここで一例として化学業界の対応について、ごく簡単に紹介する。化学産業は(1)天然資源を基に多くの化学物質が合成され、多量に世の中に供給される(2)化学反応や各種の単位操作(原料輸送、貯蔵、分離、精製、混合、製品出荷等)を伴い、その過程で化学物質と作業者や設備との関わりが生じる(3)アウトプットとしては製品以外に一部廃棄物や環境への排出物が生じる、などの特徴があり、全ての産業の基礎をなしているといっても過言でない。製造者も、その責任の重さに鑑み、レスポンシブル・ケア(責任ある配慮)、MSDS(製品安全データシート)の発行、PRTR制度(化学物質排出移動量届出制度)に基づく化学物質管理等に率先して取り組んでいるが、これらは企業倫理の一側面でもある。
 図1以外にも技術者倫理に関連する事例としては安全・環境問題、品質問題、知的財産問題、虚偽実験データ、設計ミス、連絡ミス、調査不足、各種誘惑、手抜き、手ぬかり等、超多忙、無理のし過ぎ、不親切、安全配慮欠如等の多くの事例が見出せる。
5.技術者倫理の実践例
 地域活動の例として、K市教養センター循環バス導入問題を紹介する。「地域住民の倫理(少数意見であっても最も影響を受ける住民の安全、健康および要望事項の最大尊重)」と「技術者倫理(地域住民およびセンター通所者の安全、健康および利便性等の尊重)」が複雑に絡んだ課題であった。(図2)この問題を通して、(1)技術者倫理の基本原則である「住民、通所者の幸福と利便性の向上」を貫くことの重要性(2)徹底した話合いが不可欠(3)技術的事項の解決のみでは問題は解決しないが技術者倫理を勉強したことが強い支えになる等が明らかになった。2005年4月からは循環バスに代わってミニバスが走り始め、住民にとっては一層便利が良くなった。技術者実践の重要性の一端が示されていると考えられる。
<図/表>
表1 化学物質に起因する危険性と対応例
表1  化学物質に起因する危険性と対応例
図1 工学倫理と技術者倫理の関係
図1  工学倫理と技術者倫理の関係
図2 循環バス導入問題
図2  循環バス導入問題

<関連タイトル>
日本原子力学会における技術倫理活動 (10-08-01-03)
国際協力における環境倫理の視点 (10-08-01-02)

<参考文献>
(1)福沢諭吉著:学問のすゝめ,11-12,186-187ページ,(株)岩波書店,1942年12月21日(第1刷、2004年第82刷)より引用。
(2)旭ベンベルグ絹糸(株)取締役社長 野口遵:旭ベンベルグ絹糸(株)全貌,「人類文化の向上と 吾社の使命」,2ページ,1933年9月21日発行 より引用。
(3)新渡戸稲造著、奈良本辰也訳:武士道,(株)三笠書房,1997年7月15日(新装版第1刷、 2001年第24刷)を参照。
(4)旭化成(株):旭化成80年史,2002年12月5日
(5)(社)日本技術士会 訳編:第2版 科学技術者の倫理—その考え方と事例:丸善(株), 2003年3月31日
(6)(社)日本技術士会:技術士6、2004、p4
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