<大項目> 核燃料リサイクル施設
<中項目> 再処理
<小項目> 再処理施設
<タイトル>
六ヶ所核燃料サイクル施設の立地の経緯 (04-07-03-14)

<概要>
 わが国の原子燃料サイクルの開発に関する政策に基づき、商業規模の使用済燃料再処理工場の建設、運営を電力出資の日本原燃サービス(株)(現在の日本原燃(株))が行うことになり、立地先が求められていたが、青森県が既に整備していたむつ小川原工業開発地域が、ウラン濃縮、低レベル放射性廃棄物貯蔵と再処理を併せて立地するのに好適と判断され、1986(昭和61年)年、電気事業連合会が青森県および六ヶ所村にこの旨申し入れ、受け入れられた。1980年代末期の地元情勢の混乱にもかかわらず、その後の推移は順調である。1992年末、ウラン濃縮工場は平成3年度分および平成4年度分が稼動し、低レベル廃棄物貯蔵センターが操業を開始し、廃棄物管理施設(返還廃棄物)はほぼ完成し、再処理工場は事業指定を受け工事中である。
<更新年月>
2000年10月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
(1)わが国の再処理の推進に係る情勢
 1950年代半ばより、わが国でも原子力の平和利用に積極的に参入することになり、RI利用、国産研究炉の建設・運転、ウラン探鉱・製錬等に続いて、本命である動力利用が策された。始めての実用発電炉の東海1号炉(1966年営業開始)は天然ウラン燃料ガス冷却炉であったが、以降は軽水炉が採用され定着した。1970年代に入り逐次 BWRPWRが各電力会社により建設・運開され、単基容量が百万kWを超えるものも現れるようになった。これらの発電炉から排出される使用済燃料は国内で再処理し、回収核燃料はリサイクルする方針で、先ず技術確証と当面のプルトニウム需要に応えるため動力炉・核燃料開発事業団(現日本原子力研究開発機構)の東海再処理工場(処理能力0.7トン/日)が建設された。この工場は1977年にホット試運転を開始し、1981年より本格運転に入っている(1993年3月までの累積処理量約720トン)。わが国の使用済燃料の年間排出予想量は、1992年で約900トン(累積約9,000トン)、2000年で約1,100トン(累積約16,500トン)であり、東海再処理工場はその小部分を賄うに過ぎない。英・仏両国に1994年3月現在、軽水炉使用済燃料約5,000トン、ガス炉使用済燃料約1,200トン、合計約6,200トンの再処理委託契約があるが、各発電所の使用済燃料貯蔵能力に余裕のあるうちに本格的な規模の再処理工場の建設が必要であることが明らかとなった。
(2)日本原燃サービス(株)の設立
 このような情勢の下、本格的再処理工場の建設・運営は使用済燃料を排出する発電炉を所有し運営する電力会社が中心になって行うことになり、1980年3月、日本原燃サービス株式会社が設立された。
 同社は発足以来、再処理新工場の企画、設計概念の検討、関連技術の確証調査等の技術面の展開とともに、建設サイトの選定に努力してきた。
 若干の地点の有志から施設の誘致について非公式な打診もあったが、次節に述べる青森県の「むつ小川原工業開発地域」への立地活動までは具体化したものはなかった。
(3)六ヶ所村(むつ小川原工業開発地域)への立地の経緯
 青森県下北半島の基部にあたる上北郡六ヶ所村に属する太平洋に面した小川原湖、鷹架沼、尾駮沼の周辺地区は、1970年代に国の新全国総合開発計画(1969年) に基づき工業団地を主にした総合開発地区として開発する計画(約5,500ヘクタール)で、青森県等が中心に「むつ小川原開発会社」を設立して、敷地の買収(1972年末開始) 、むつ小川原港(1977年、重要港湾政令指定)の一部建設に着手し、1980年迄には用地の取得、住居者の移転を終えたが、むつ小川原国家石油備蓄基地(1980年着工、1985年完成) が実現しただけで、他の進出企業を得ることができずにいた。図1に、むつ小川原工業開発地域を示す。
 この地区は、夏場に「やませ」と呼ばれる冷気が襲来し、気温低下と濃霧の発生が続き日照時間が少なく根菜以外の農作には適さないため重工業関係を中心とした開発を目指したが、石油ショック以後の産業構造の変化(重厚→軽薄、基礎→ハイテク)等で思うような発展が望まれなかった。
 複数の核燃料サイクル施設に必要な規模の用地が、既にむつ小川原開発公社一社の所有であること、競合する他産業も見当たらないこと等、地元の受入れの意向さえ固まれば、極めて好都合な候補地であるといえた。表1に日本原燃サービス(株)・日本原燃産業(株)の施設許認可申請状況を示す。
 ウラン濃縮事業化、原子炉廃棄物の集中処分問題を再処理事業化とともに抱えていた電力界は、これらの事業を一括して立地できるサイトの候補地として「むつ小川原工業開発地域」に着目して、1984年4月20日、電気事業連合会会長が青森県知事(北村氏)に上記三施設、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物貯蔵センター、使用済燃料再処理工場(返還廃棄物貯蔵を含む)の立地について包括申し入れを行った。続いて7月27日、電事連会長が青森県知事および六ヶ所村村長(古川氏)に立地の正式申し入れを行った。
 これを受けて青森県は「原子燃料サイクル事業の安全性に関する専門家会議(11名)」を設置(1984年8月)、県論集約のための事前説明会を開催する等、県内の各界各層からの意見聴取に努めた。前記専門家会議は1984年11月に最終専門家会議を開催し審議結果を県知事に答申した。
 一方、六ヶ所村は「原子燃料サイクル施設対策協議会(75名) 」を設置(1984年8月)、翌年1月には立地に協力すべきとする意見書を村長に答申した。更に六ヶ所村村議会全員協議会が立地受入れを了承、村長が県知事にこれを報告した(1985年1月17日)。
 青森県はこれを受けて県内各界各層の第2次意見聴取を行い、県議会全員協議会を開催し、原子燃料サイクル施設の立地受入れを決定した(1985年4月)。「むつ小川原総合開発会議(14省庁会議)」に三施設の立地を織り込んだ開発計画の一部修正案を青森県が説明した上で、同年4月18日、知事、村長から電事連会長に立地受諾の回答を行い、「原子燃料サイクル施設の立地への協力に関する基本協定書」が両者間で締結された。
 立地反対の動きもあり、例えば青森県労が県民投票条例にのっとり原子燃料サイクル施設の立地の賛否を県民投票に掛けようとする直接請求の提起を署名を集めて行ったりしたが、臨時県議会で否決されている(1985年5月)。反対は、主として原子力全般に反対の政策を持つ政党関係および農業関係者(特に立地点と離れた津軽地方)等に目立った。
 1985年3月には、ウラン濃縮、低レベル廃棄物埋設事業を担当する事業体として日本原燃産業(株)が設立された。又、6月には陸域の立地調査が開始され、10月には「六ヶ所原燃PRセンター」がオープンした(1991年9月、新原燃PRセンターが新築開所)。1986年3月、村内の泊漁業協同組合総会で海域調査受入れが決議され、6月から海域、沼域調査が開始。8月、原燃両社とむつ小川原開発(株)間で土地売買契約が締結された。
 1989年12月の六ヶ所村の村長選挙では、前村長の古川氏(積極的誘致派)が土田氏(選挙公約に燃料サイクル施設開発の一時凍結を唱える、慎重派)に敗れる。
 1991年2月の青森県知事選挙では、元保守系県参議院議員が現職の北村氏に対抗して立候補したが、北村氏が4選を果たした。
 先行していたウラン濃縮工場の機器搬入に小規模の反対デモがあったりしたが、1991年に青森県および六ヶ所村と日本原燃産業(株)との間で「六ヶ所ウラン濃縮工場周辺地域の安全確保および環境保全に関する協定書」および「同協定の運用に関する細則」の締結(7月) 、三沢市、野辺地町、横浜町、上北町、東北町および東通村と同社との間で「六ヶ所ウラン濃縮工場隣接市町村住民の安全確保等に関する協定書」の締結(9月)が行われ、ウラン濃縮工場は同年9月27日、事業開始となり、ホット試運転に入った。
 一方、日本原燃サービス(株)の再処理事業および廃棄物管理事業に係わる公開ヒヤリングが同年10月30日、六ヶ所村村立総合体育館で平穏裡に開催された。
 このように六ヶ所村における原子燃料サイクル事業の立地は順調に推移し、永い間もつれていた東通村の東北電力および東京電力の原子力発電所の立地についての関係漁業組合との漁業権消滅補償交渉が、県の調停で1992年8月に合意された。
(4)原燃両社の合併
 1992年7月、日本原燃サービス(株)と日本原燃産業(株)は合併して日本原燃(株)(JNFL)が設立され、青森市に本社を置いた。
<図/表>
表1 日本原燃産業(株)・日本原燃サービス(株)の施設許認可申請状況
図1 核燃料サイクル施設建設予定地位置図

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<関連タイトル>
六ヶ所再処理工場 (04-07-03-07)

<参考文献>
(1)青森県むつ小川原開発室:むつ小川原開発 1990(広報資料)
(2)日本原燃(株):原子燃料サイクル施設立地の主要経緯(1995年5月、広報資料)
(3)原子力委員会:平成6年版 原子力白書、平成7年2月
(4)科学技術庁原子力局(監修):原子力ポケットブック1994年版、日本原子力産業会議(1994)
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